つらい経験、「あってよかった」なんて言わなくていいんよ
あの時のつらい経験のおかげで、今があると思います。
今思えば、あの苦しみも必要だったんだなと。
そう言う人がいます。そう言える人がいます。
わたしは、いじめ被害や不登校の経験をきっかけに子どもたちの居場所づくりを始めたので、よくその質問を投げかけられます。
いじめや不登校、つらい経験がたくさんあった中で、“あってよかった”と思いますか?
“あってよかった”なんて思ったことないよ
つらいことがあったから、優しくなれる。
そんな言葉があるそうです。
確かに一理ある、のかもしれません。
自分が言われて嫌だったから言わないとか、自分基準でやさしくするには、つらい目に遭うのも必要なのでしょう。
でもわたしは、どうしてもそうは思えないのです。
いまのわたしが優しいのだとしたら、それはつらい思いをしたからではありません。
人のやさしさに触れたからです。愛情を差し出してくれる人と出会えたからです。
わたしは中学生のときの経験を含め、人並みにつらい体験をしてきましたが、そのすべてに対して
「あってよかった」
なんて、言えません。
なかったらよかった、とも思わない
じゃあ、なかったらよかった?
そう聞かれることもあります。
これも、「なかったらよかった」と答えはしません。
当時の経験については、「あってよかった」とも「なかったらよかった」とも思えないのです。
だって、あったから。
なかったら違う道があったのかもしれませんが、そんなの分からないもの。
現状、ある程度満足できる状態ではあるので、「あれが無かったら人生違ったのに!!」みたいな感情もありません。
つらいことがあって、
今はそれなりに受け止めていて、
当時のことに関係のある仕事をしている。
その事実がただ存在するだけなのです。
一つだけ、確かなもの
「あってよかった」とも「なかったらよかった」とも言えずなんだかフワフワしていますが、一つだけ確かなものがあります。
それは、「繰り返したくはない」ということです。
繰り返さないために、子どもたちの居場所づくりに取り組み、フリースクールRizを作った部分もあります。
つらい経験なんて、少ないほうがいいに決まってる。
自分の過去について、「なかったらいい」と思うことは少ないけど、未来について「つらいことが少ないといい」とは思います。
つらいことにも価値は見出せるけど、その価値を知っているのはわたしだけでいい。わたしが頑張って伝えるから、これからの子どもたちは、実際に経験して自分なりに噛み砕くなんて回りくどいことしないでほしい。
どうしてもつらいことは起こる。それはしょうがない。
でもせめて、早い段階で対応したり、逃げ場や休憩所を作ったりして、心に残る傷は減らしたい。
「つらさ」から何かを学ぶ機会よりも、「やさしさ」から何かを学ぶ機会のほうが多い人生を歩んでほしい。
そんなことを、思っています。
「あってよかった」も価値観の一つなのでその想いは尊重しますが、
無理に「あってよかった」と言う必要はないんですよ。
あなたの周りに、幸せが溢れますように。
***
中村さんのnoteを読んでいたら、「マジめっちゃそう…」と思ったので、筆をとってみました。
価値を感じられているからといって、当時の経験を「してよかった」とは思えません。辛かったし苦しかったから。
そして、そのような悲しい経験は、誰にもしてほしくないと思っています。過去の自分を救いたいとも思っているし、同じように苦しんでいる今の誰か、未来の誰かを救えたらとも思っている。
まっすぐな想いを持ってチャレンジし続けている中村さんの姿勢は、ただただ尊敬するばかりです。
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