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「未来への手紙」のすすめ|一週間前のわたしからのメール

一ヶ月ほど前から、「未来のわたしへ宛てたメール」を書いている。
最初は「今日は、仕事の締め切りがあるので、忘れずにこなすこと。18時までです。」なんて、なんとも味気ないことを書いていたのだけれど、つい先日、過去のわたしからこんなメールが届いた。

これが想像していた以上に嬉しくて、背筋をしゃんと伸ばすきっかけにもなったので、皆さんにも「未来への手紙」をおすすめしたい。

「未来への手紙」を書き始めた理由

もともとこれを書き始めたのは、自分があまりに当日の予定を忘れがちなのをどうにかしたいと思ったから。
毎晩、翌日のスケジュールを確認するクセをつけたくて、でもいわゆるアラームで教えてくれるようなものは味気なくて、考えた末に至ったのが「手紙」だった。

だから当初は、ミーティングの時間の確認や仕事の納期、連絡が必要なもののリストなど、本当に仕事に関することを書いていて、その付属品として「ゆっくり休んでね」とか、申し訳程度のメッセージを添えていた。いつしかその付属品のほうが、メインになったけれど。

最初はていねいに手紙を一通一通したためていたのだが、「もっとふと思った時に投函できるようにしたい」と思い、今はメールというかたちで未来のわたしとやりとりを続けている。

「未来への手紙」を書き始めて気付いたこと

手紙を書くようになって気付いたことが、2つある。

1つ目は、未来のわたしに対して、わたしは優しく在れるということ。
過去や現在のわたしに対してはなにかと厳しい物言いをしてしまうのだけれど、未来のわたしへの手紙を書くときは、「元気でやってるかな」「たまには自分を癒してあげてね」など、自然と優しい言葉が出てきた。
好きな作品の映画化情報を見つけて、「これは未来のわたしが喜ぶぞ」とメールを打つ時もある。

まるで隣人に差し入れをするかのように、「これ、良かったら」くらいの気持ちでメールを送れている。
それはきっと、未来のわたしが「どういう状況にいるのか分からないから」。過去や現在は、自分自身がどういう気持ちを持っていて、どんな状況にあって、自分がどういう選択をした(する)のかが分かっているから、ついつい口を出したくなってしまうのだろう。「そっち行ったら間違えるから、こっちにしときなさい!」みたいな。お母さんみたいだ。

2つ目は、わたしの日々は思ったよりも美しいということ。
未来の自分に対してメールを出す時、「彼女が喜ぶのはどんなことだろう」と想像する。つい忘れてしまうであろう映画の公開日や、イベントの最終日を知らせる時もある。厳しい納期があった時は、その終了時間に合わせて「お疲れ様」と一通出しておくこともある。
彼女が喜ぶようなものを探すうちに、わたしの日々が美しいもの、すてきなもので包まれていることに気付いた。
思ったよりも、わたしが楽しみにしていることは多い。

何も材料がない状態で過去を振り返ると、なんだか失敗だらけのような気がしてくる。あれも、あれも、あれも、あれも。どんどん後悔している出来事が思い起こされ、ブルーになってくる。(それも、過去のわたしに厳しくなってしまう要因かもしれない。)
でも、自分のがんばったことや楽しみにしていることだけでつくられた手紙は、そんなわたしの心をそっとほぐしてくれる。
過去のわたしが、優しく教えてくれるのだ。わたしの日々が、いかに喜びに満ちているのかを。

過去のわたしから届いたメールたち

ちょっと恥ずかしい気もするけれど、過去のわたしから届いた優しい言葉たちをわたしの記憶とメールボックスだけにとどめておくのは惜しいので、ちょっとだけ公開する。

すごく時間のかかる記事を書いた時のもの。
1日の中でも、やっぱり未来のわたし宛に書くと、優しい言葉を選べる気がする。
ちなみに記事は無事完成し、納期には間に合った。相手に納品完了のメールを送ったところでちょうどこれが届き、すごくほっとしたのを覚えている。

夜まで用事があったり、立て続けに仕事が入ったりした時でも一日一通は書くようにしている。そういう時は、短く、シンプルに、大切にしたいことだけを送る。
記事を書くのをはじめとして、何かものごとを習慣にしようと思った時は、「続ける」ことと「無理しない」ことが本当に大切。

現在の自分に対して「頑張ったね、お疲れ様」と言うのは難しくても、明日のわたしに対して「頑張ってたから、休憩してあげて」と伝えるのは簡単なのは、なんでだろう。
ついついアクセルを踏み込みがちな性格なので、こういうメールが届くとすっとする。「昨日の自分も言っているのだし」と素直に受け止め、休むことを許せる。

休日のわたしへ向けても、手紙を書く。
ストレス耐性は低いくせにストレスを感知(自覚)する能力は著しく低い(しかもそれでアクセル踏みがちなんだから本当に不器用な)ので、こうやって疲れを自覚する機会をつくる。
それも、現在の自分が「疲れてないか?」と自問自答するよりも、過去の自分から「疲れは感じていないかもしれないけれど」と言ってもらったほうが、受け入れやすい。

きっと、わたしにとって未来のわたしは「他者」なのだと思う。
他者として認識するから、自分に対してつい言っちゃうことは言わないし、気恥ずかしくて言えないようなことは言えるのかも。
そして、わたしにとって過去のわたしは「自分」なんだろう。
自分から言われたものは、それが誰の意見よりも的を射ていることを知っている。だから、受け入れられるし、その意見を行動に反映しようと思える。

未来への手紙は、不器用なわたしなりの、わたし自身を大切にする術なのである。

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