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#国際女性デー 性別という一属性で、人を区別してもつまらないじゃないか

私はかねてから、ジェンダー問題や、男女格差については敏感である。敏感というか、男が、女がという意識の持ち方自体に違和感が拭えない。

私が男性という立場でありながら、SNS等でも特に女性の問題に対して発信することが多いのは、女性の権利を主張したいとか、女性のために立ち上がろうとか、(もちろんそういう意識もあるが)言いたいのはそういう表面的なことではない。

人を、男と女という一面性だけで語るようなつまらない感覚はもうやめようと言いたいのだ。

もちろん、性の違いというのははっきりと存在し、その違いは様々な無視できない差異があることは疑いようがない。
私は生物学的な男性だし、性的指向も男性で、女性のことが好きな、いわゆるシスジェンダーだという自覚はある。
女性とは根本的に違うところが当然ある。

ただ、それは私という人間の持つ無限の属性のうちの一つの要素に過ぎず、私という人間は、もっと多彩な属性の組み合わせによって出来上がっている
それを、私という個人の多彩性を見て評価するわけではなく、男か女かで何かを決めるような扱いをされるのは、たとえ優遇されるのだとしても、その時点でぞんざいな扱いをされた気分になる。

そもそも、自分は性自認としては、明確に男性だとも女性だとも思えない。
正直多くの男性と言われる人達とは、話が合わないのだ。
かといって女性と自認しているわけでもなく、いわゆる男性脳女性脳で言ったら4:6か3:7で女性脳寄りかな、みたいなグラデーションの中にいる。そんな認識なので、男だから女だからという区分けには私は意味を見いだせない。
じゃあ私はどっちだとあなたは言いたいんですかと。
男だからとか女だからではなく、私だから、貴方だからが知りたいんですと。

男女格差がある社会というのは、男性にとっても自分が個として評価されているわけではないことの虚しさを感じた方がいいように思う

私にとっては、男の人か、女の人かというのは、眼鏡をかけている人か、かけていない人かと同じような違いでしかない。
その一点、二点の要素があるくらいで、人というものがわかるわけはなく、社会的に区別するような判断ができるわけがない。

今日は国際女性デ―ではあるが、大事なのは、女性の問題があるという認識だけで終わらないことだ。
同じ人間なのに、男性と女性とに分けられて考えられるような社会的問題が発生していること自体に疑問を持った方がよいという事。
先ほどの例で言えば、
眼鏡をかけている人だったら出世して、かけていない人は子育てしろって言ったらおかしいと思うだろう
それと同じようにおかしさを感じられないことが問題だと言いたい。

男性と女性では、社会的な扱われ方がはっきりと分かれていることが、こと日本においては目に余るほど多い。
実のところ女性だけでなく、男性もその社会的に決めつけられた男性像に縛られた被害者なのだが、それを意識させないほどに女性にだけ理不尽な扱いをされていることが多すぎる。
だから必然的に女性の問題を取り上げられ、それが目立っているのだが、
男性にも女性にも間違ってほしくないことがある。

「女性」が傷つけられているのではない
「その人」が傷つけられているとの認識を持ってほしい。

「女性」問題があるのではなく
「その人」の問題が「性別」という属性のみで発生する異常さがあると感じてほしい。

(当然、その異常性のなかでは、「男性」問題なる物も発生する)

自分や他人を、何かの属性に属させて、仲間意識や敵対意識をあおっても意味がないじゃないか。
私たちは決して同じことはあり得ない、独自の多彩な色を持った、同じ人間なのだから。
そんな捉え方が広まり、全ての人が自分事として「その人」の課題を解決しようと思える社会になることを願う。


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