それ何人乗り?

 (2024年冬、口頭)(※性暴力の描写があります)(つらそうな方はどうぞ無理せず)

 このごろは、あれもだめで、これもだめなんだって、聞いたり読んだり、教えてもらっている感じです。

 たとえば人間は、ごはんを、お箸なりスプーンなり、食器を使って食べるんですよ、って言われても、なんで? みたいなこと。

 なんでもなにも、人間は、そういうことになっているんですよって。
 なんでだめかはわからないけれど、だめということになっているのね。わかった。みたいな、限界。

 日々、じっと見ている感じがします。人間。
 時々、自分たちが、洗っていない犬みたいな感じがして、恥ずかしい気持ちでいます。

 同意、同意なあ。
 こっち側では、大事な概念だなあと思うんです。
 こっち側だと、ちょっとよくわかんないんですね。

 なんか、いつ発生すんのそれ、みたいな。
 いつの間にかそうなっているんだけど、
 脳味噌割れてんのに同意とかある? 
 でもこれが野蛮人かなあって思うと、恥ずかしいから、なんか、わかってるような顔しちゃう。

 「人間界ではこれはダメなんだな」って。学ぶけど。

 同意がダメとは言ってないです、そんな話はしていない。大事なことだと思っています。
 そうじゃなくて、これは、脳味噌に断層ができて、すごくつらい。という話です。

 これは理不尽なことと承知しているんですが、

 「それはだめなことですよ。」っつってる偉い人たちさあ、
 おまえらの誰か1人が、その時、わたしたちに、ごはんをくれたんですか? 

 はあーーーーーーーーーー? 誰かくれたんですか。いてくれなかったでしょ。誰も。
 おじいちゃんは、いてくれたもん。ごはんもくれましたー。と思って。

 餌もくれなかったやつが、性教育とかぬかしてんだけど。みたいな気持ち。

 私は過食嘔吐の時、時間をドブに捨てるインターネットサーフィンをするんですが、(頭をぼーっとさせないと無理なので。)

 その時に、性暴力の話から「性教育が大事」みたいな結論に流れつくと、ときどき、憎悪みたいになります。
 いや、性教育、大事なんですよ。わかってます。大丈夫です。

 子どもが、ノーといえたとてよ。いや、大事なんですけど。
 子どもが無力って言っているんじゃなくて。
 子どもにノーと言わせる状況が、もう、だいぶ、つらくない? と思って。
 いや、でも、もっとべつの話をしているのかな。わかんないですね。

 われわれは、状況として、首を絞められて目の中が膨らんでいる時とかを想定して、それもうだめじゃない? と思っているけど、
 もっと違う話なのかもしれない。わかんない。

 でもなんで、子どもが学ばないといけないの? 大人は????? と思って。
 ノーって言えたとして、殺されたら意味ないじゃん。って思います。

 だって大人は、お断りされることに、耐性がないでしょう。私もないですけど。
 大人は、ノーって言われたら、悲しすぎて、怒って、相手を殺しちゃうじゃん。と思って。
 
 先に大人が、「あなたが望まれない場合もある。それはあなたが無価値ということではないので、大丈夫です。」とか、教わってくれないの?
 くれないんだろうなあ。と思って。

 そんなつもりじゃないと思うんですけど。
 でも、性暴力の解説した後、「やはり性教育が大事ですよね」って閉める感じ。「やはり」?

 「やはり性教育が大事ですよね。
 子どもには、自分の体が自分のもので、ノーと言っていいんだって教えてあげないと」みたいなこと。
 なんで?

 補足みたいに、あとから「もちろん大人もですけど」って言うけど、
 なんで子どもの話からするの?



 そのバス、だいぶ、乗車制限あるでしょ。と思って。
 性教育って言って届く、高層階の人だけの、バスじゃん。

 いやでも、どんどん乗ったらいいと思います。乗れる人から。絶対あったほうがいいって思います。
 と同時に、あーあって。その乗り物は、何人乗り? じっと見ているような気持ち。

 うっせえなって。
 被害じゃねえわ。餌の足りたやつがほざいてんなよ。みたいな気持ちになって。
 一方で、そういうふうに思う自分が、恥ずかしいな、と思います。

 性教育も人権も、ない世界よりはある世界のほうが、絶対いいなあって、思います。
 すごくいい考えを聞いた後、乗車制限のことを考えます。

 乗れない人は、どうしたらいいかなあって。
 だって、ごはんをくれる人なんだよ。