飽きる、をさせてくれない最近のゲーム

 最近のゲームというのは、どうやら「終わり」になかなか到達できないらしい。

 最近はどんなゲームが出ているのかは、あまり詳しくないので、大それたことは言えないが、恐らくそういう工夫を作り手側が施しており、なるべく多くのプレイヤーが長い期間飽きずに遊べる設計をしているのだろう。一連のストーリーがあり、それがめでたく一度完結するが、その後に設定されてる高レベルな課題や要素の方が、実は本編よりもボリュームがある、というのが今は当たり前になっている。

 また、そもそもストーリーがなく、短期的な課題や勝負をテンポよく消化していき、プレイヤーが飽きたなぁと感じる前に、人を惹きつける餌(もちろん現実においては、なんの栄養にもなるものではない)をまき、いつまでもプレイヤーたちを飼いならしておく、というスタイルも最近は主流になっているように見受けられる。

 常にネットにつなげておけるようになったことで、定期的(戦略的)にゲームの内容をアップデートしたり、追加のコンテンツを増やすこともできるようになったのが大きな原因だろう。(もちろん1つのゲームに積み込めるデータの大容量化もある。)ゲーム内容をすべてこなしてしまい、やる事がなくなってそのゲームから離れたプレイヤーを、再び引き戻すこともできる。今のゲームならではの長所といえる。(今や普遍的過ぎて長所でも何でもないが。)

 さて、このような「終わり」を見せてくれない今のゲームを、子どもから大人まで楽しんでいる。いや、楽しんでいるのは最初だけで、あとは惰性でやり続けている者も少なからずいるはずだ。また楽しみがやってくる、キャンペーンが来るまでもう少しやってるか、などと餌が落ちてくるのを口を開けて待っている。(この構図は端から見ていると大変ファニーだ。)やめるか続けるかのモチベーションも、ある程度作り手側が操ることが出来る。誰かが提供してくれる「楽しさ」をだらだらと続け(させられ)ている。これが果たしていいことだろうか。


 そもそも飽きるということを経験するのはとても重要だと思う。

 熱中した後には必ず飽きが来るものだ、と考えている人は多いと思う。あらゆることにいずれ終わりが来る、という考えに近い。(人間なら普通はそう考える。)それだけなら普通だが、飽きとその後に訪れる空白(暇になる状態、やることが何もないと感じる状態)を恐れ、空白をなるべく作らないように、次々と刺激と愉悦を継ぎ足していく、というのは少し不安定な状態に見える。すぐ飽きることは悪だ、と考えているならこのような行動をしてしまうかもしれない。

 しかし、何かに取り組んでいたが時と共に熱が冷めてしまった、なにか違うことをしよう、といった事は起こるし、なんら不思議なことではない。

 手当たり次第に様々なことに手を付けては、ちょっと上辺だけなぞっただけで詰まらない、としてしまうというのは話にならないので、そこそこ時間と労力をかけて自分の中で納得いくところまで続けてみる。その過程でいい点、悪い点がいくつか発見できるまでやってみる。いい点が多ければいいが、それが予測できてしまうところまで来てしまい、それ以上新しい楽しみがなくなってしまったので、他のことに移ってみる。それは飽きたといっていいと思う。その飽きという経験がその後、真に楽しいと思えることに出会えたときに、思いがけず役に立つことが往々にしてあり得る。(優良なコンテンツを作り続けている人の多くは、まっすぐではなくどこかで遠回りしてきた人だ)


 しかし昨今のゲームは、その飽きにさえも到達できない。次々に投下される新しい要素は、そのコンテンツを不老不死にしてしまう。飽きという死が訪れる前に、コンテンツを延命させる刺激物を投与し続けプレイヤーの感覚をマヒさせる。

 そしてこれは、ゲームだけの話では済まない。あらゆるコンテンツがそうなっている。ずっと熱いまま(あるいはぬるいまま)冷めることを知らない。汗腺ならば開きっぱなしの状態。飽きさせるまでの時間を与えてくれないので、ほかの大切なものと出逢える新鮮なタイミングを見過ごして腐らせてしまう。

 製作者、配信者の巧みな人心操作により、興味を失って次のものに移るという行為をいつまでもさせてくれない。それによって、このコンテンツがあなたにとって楽しいもの、熱中できているものだという蜃気楼を創り出してしまう。また、その蜃気楼に気づく能力が欠落してしまった人間も増やしてしまう。(もう引き返せないほどの膨大な数になってしまったが。)終いにはこれらの製作者、配信者が与えることを辞めたり、トラブルやスキャンダルが露呈すると、怒り出す人も出て来る始末である。ここまでくると、口の達者な奴隷か人語を覚えた家畜だ。

 

 本来なにかに熱中していて、飽きが来るということは、その熱中できていたものが、本当の意味で自分にとって夢中になれるものではなかったということだ。

 夢中になれない、もしくはすぐに飽きが来るというものとは、自分以外によって与えられたもの、または自分以外に認められたくて始めたことだ。「誰か」が介入してくると、その「誰か」に果てしなく大きく依存してしまう。

 だれかが作ってくれたもの、他人と一緒に楽しみを共有するもの。誰かのためにすること。他者を見返すためにやっていること、そんなところだろう。近年もてはやされているもの、楽しいというレッテルを貼られいいものだと宣伝されているものは、殆ど当てはまっていないだろうか。

 それらの楽しみというのは、自分を見てくれる他者がいなくなってしまったら、存外あっさりと消えてしまう。消えゆく相手を必死に引き込もうともがくが、相手からしても、それは与えられていたことに変わりはないのだから、やはり熱は続かず去っていく。そして、こんなにさみしいことが楽しかったのか、と両者立ちすくむことになる。

 本当に楽しいものは、いつまでも好きでいられるし、無限の要素があり、飽きとは無縁だ。そして、そこに他人はおらず自分だけが楽しめる。自分自信が作り、自分ひとりを楽しませ、自分で認めてあげられる。ひとに自慢するようなみっともないこともしない。自己満足という言葉は決して悪いことではない。むしろ人生の本来の在り方だと僕は考えている。


 一つのところに命を懸けろ、やりだしたことは途中でやめず最後までやりなさい、と周囲の大人たちから教えられてきた。そもそも、やりなさいと言われているということが、のめりこめる対象を持っていないことの裏返しとも言える。本当の自分を見つけましょう、やりがいのある〇〇をあなたに、みたいな余計なお世話でしかない文句がはびこっているのも同じことだ。

 過干渉で差し出がましい大人たちも恐らく、子供たちに楽しみややらなくちゃいけないことを与えすぎて、子ども自身で思考創作する暇を与えていないのだろう。

 本当に最期まで継続できる何かを既に持っている人は、命を懸けて挑んでいる。多分10年やそこらで飽きてしまうようなものは命を懸けられないだろう。いつまでも自己満足し続けている。黙々と人に話さずやっている。人にいわれることもないし、下世話な情報に踊りもしない。そして他人に対してやりなさいと指図もしないだろう。


まさに純真無垢な子供。精神は子供のままで十分なのだ。

 


人間は忘れてしまったのだろうか。

子供のころに時間を忘れて夢中になれることがあったことを。

真っ白なデフォルト状態を捨て、人間は余計なアップデートに夢中になっている。

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