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「引き継ぎ書」だけでは足りない

「やっぱりね。言葉に迫力がなくなるんです」

とある取材で、多くの人が知っている企業のCIや商品のデザインを手がけられてきたデザイナーから出てきた一言です。

その方は企業からオーダーをもらったら、まずその企業の若手・中堅・トップにじっくりと回数を重ねてインタビューを行うことから始めるそうです。そして、そのインタビューを通じて出てきた言葉を付箋に書き溜め、相当数集まったら並べて「共通する言葉」を見つけ、そこからデザインに移るという作業を必ずやっているそうです(そこから先も気の長くなるような作業の連続なわけですが)。

そこまでして言葉を集める理由として、冒頭の言葉に戻ります。
デザインは説明できなくてはならない、そのためには説得力のある言葉にしなくてはならない。そういったお話だったと解釈しています。

「デザインは言葉である」ということもおっしゃっていて、それ自体にもハッとしましたが、この「迫力=説得力」というニュアンスは、これまで社内だけでも300人強に取材してきた身としてもわかることはあります。

幾分個人的な解釈を踏まえた共通項を挙げるとすれば、商品の開発の裏側であっても、ふだんの仕事の取り組み方においても、私が仕事であることを忘れるほどに聞き入ってしまう人の話には、出てきた言葉が「その人の身体を通っているか」という点があります。

「身体を通る」というのは、自身が携わる仕事の領域において、丹念に関わって“きた”人、関わって“いる”人、関わっていく“であろう”人の言葉を丁寧に聞いているという意味合いです。そこに自身のこれまでの経験やセンスを紐づけてうんうん悩みながら「自分ならでは」の解釈を持つということです。決して「引き継ぎ書」だけで仕事をわかったことにせず、自身の中にある好奇心と猜疑心を最大限引っ張り上げながら、できうる限りの「聴く」という所作を通すことを指しています(その「聴く」には当然文献やカルチャーなども包含されます)。

反面、「引き継ぎ書」で仕事を済ませてしまう人の言葉は、その書面の中の言葉は綺麗に(それこそ暗唱しているのではないかと思えるほど)語れるのですが、インタビューを通じて長時間(1.5時間程度かけます)話を聞いていると、徐々に同じような話が繰り返されるということがわかってきます。取材のはじめは気づかないんです。はじめは「わかりやすい」話ができる方だと、なかば賞賛の念も交えながら期待を込めて聞くわけですが、だんだん「あれ。回答が似通っているな」となることが増えてきて、取材が終わる頃には頭を抱えることになります。

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確たる根拠はないけれど「そうかもしれない」と思うことは、日々の生活や仕事の中で結構あると思うんです。普段は通り過ぎてしまうそういう感覚が後々顔を出してはヒントを与えてくれることも。正解やノウハウばかりが並ぶSNSでは発言することに気が引けてしまう「なんとなく」を月に2回を目処に書き残していきます。読んだ方々にとって、日常の「小さな兆し」に気づくきっかけになれれば。

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