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素朴 【そ_50音】

1 自然のままに近く、あまり手の加えられていないこと。単純で発達していないこと。また、そのさま。「―な遊び」「―な漁法」「―な疑問」2 人の性質・言動などが、素直で飾り気がないこと。また、そのさま。「―な人柄」(出典:デジタル大辞泉)

毎年正月は調布の深大寺に初詣に行くことにしている。

今年も例に漏れず午前中に初詣に行き、おみくじを引き(今年は「吉」だった)、甘酒を飲み、深大寺そばのそば屋の暖簾をくぐった。

素朴な疑問なんだけどさ、なんで初詣は蕎麦を食べたくなるんだろうね?」
シャキシャキした店員のおばさんに山菜蕎麦を頼み、卓上のお茶に手を伸ばしながら彼女は言う。

「そうは言ってもこの周辺には蕎麦屋しかないからなぁ」
「それはそうだけどさ。じゃあ君はここにクスクスの専門店があったら行きたいと思う?」
「クスクス?なんでよりによってクスクスなんだ」

「でもさ」僕の抗議には取り合わずに彼女は続ける。
「大晦日も年越し蕎麦を食べたわけじゃない?畳み掛けるように初詣でも蕎麦を食べたくなるのって不思議だと思わない?」
「まぁ言われてみれば」と僕はとりあえず同意を示す。

数分経ったところに蕎麦が届く。
早速一口すすり「あぁ。素朴な味がする」と彼女。
「うん。ここの蕎麦はやっぱり美味しいね」
僕は頼んだ天ぷら蕎麦をすすりながら応える。

「やっぱりなんでも素朴であることが一番だな。ところでさ、最近素朴な人に会った?」と彼女は僕に聞いた。

相変わらず唐突な問いかけだが、少し考えてみる。しかしいくつかの顔が浮かんでは「もう少し」とか「なんか足りない」とか、失礼ながら勝手に採点のようなことをして浮かんだ顔がゼロになった。

素朴な人か…ちょっと何人か顔は浮かんだのだけど…いそうでいないな」と正直に打ち明けた。そう言うとなんだか少し寂しいような残念なような気持ちになった。

「そもそもさ、素朴であることの反対ってなんだろう?」と僕は聞いた。

「簡単じゃない。マッチョであることよ」
「マッチョ!?」
「そう。マッチョ。ここを読んでみて」
そう言って彼女は一冊の単行本を手渡した。

「デートで御飯を食べたあとで、女の子は自分で勘定書をつかんでレジで金を払ったりしちゃいけない。男にまず払わせて、あとで返す。それが世間のマナーなんだ。男としてのプライドを傷つける。僕はもちろん傷つかない。僕はどのような観点から見てもマッチョな人間じゃないから。でも僕はいいけど、気にする男も世間にはけっこう沢山いる。世界はまだまだマッチョなんだ」村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス(下)』

いまいちよくわからない。そう伝えると
「あなたの頭の中に浮かんだ人はなんで素朴であると言い切れなかったのかしら?」

「いや、素朴だと思える部分はあったんだけどそれが全体ではないというか、素朴な感じだけを僕が受け取れてないというか…」

「晒されること」とそこまで聞いた彼女は続きを待たずに口にした。
「晒される?」
「うん。マッチョというのは多くの人の前に晒されることに自覚的になることなの。そしてより“よく映る”ことを意識すること。つまりね、それは世に倣うということなの」
とそこまで言い切って彼女はお茶に手を伸ばした。

「なるほど。ふむ。だから素朴がその対極にいるわけか」相槌を打ちながらひとつの事実に気づく。

「でもそれでは、ほとんどの人は素朴ではいられないということにならないかな?」

「いや、いるわよ」
「え」
「あなたの中に」
「僕の中に?」
「そう。もう少し言えばあなたの中に“素朴な僕”はいる。というか誰にでもいるの。普段は顔を出さないように奥に押し込まれているけど」

「それでね」と彼女は一息置いて続けた。
「その素朴さは手離してはいけないのよ。いや、忘れてはいけないの。素朴さは、最後の対抗手段なの。防衛手段と言ってもいいわ」

「対抗?一体何に対抗するんだろう」
「そのくらいは自分で考えなさい」
と彼女は笑って伝票を手に取った。

彼女と別れ、夕方の最寄駅の駅前の商店街を歩いていると、立ち並ぶ飲食店や総菜屋から夕飯へ誘う“匂い”がした。

「ああ、お腹空いたな」と思った。そこで先ほどの素朴という言葉が頭に浮かんだ。

彼女は「マッチョ」に対抗するための最後の対抗手段が素朴であると言った。それはもしかしたら、自身の心の中に浮かんだ違和感のようなものを素直に言葉にして発露する勇気のようなものなのかもしれない。

とても漠然としている。でも、言葉にしなくてはいけないときが、いずれ誰の身にも訪れるのであろうということだけはなんとなくわかる。押さえ付けて素通りするともう二度と取り返しがつかなくなるということも。

それはそれとして、まずは今まさに頭の中に浮かんでいる「お腹空いた」という素朴な気持ちに従って、コロッケを買うべく商店街の肉屋を目指した。


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