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仮説の手前 20

昨年末から急遽始まってしまった「棚卸の仕事」がようやく落ち着いてきたので、少しずつ読書の時間が戻ってきました。というよりは、本屋に行きたいという欲が戻ってきた、と言った方がニュアンスとしては近いかもしれません。

何かで心が占拠されていると(要は忙しいと)、コップの水が溢れるように、新しいものが入る余地がなくなって、外に目も足も向かなくなるものです。「本屋に行きたい」と思うことは、自身の「容量」に空きができた証左でもあって、個人的には良いバロメーターにもなっています。

下北沢の「B&B」に行っては、長田弘の詩集を買ったし、先週末はかつて明大前にあった「七月堂」が近所に移転してきたということで、早速散歩がてら行って30分本棚と睨めっこして2冊を選びました。ともに選んだ書籍が仕事とは距離があるという点も個人的には良い兆候です。仕事から遠く、且つ難しそう(に見える)ものを読みたいと思う時は、大抵は心の健康状態が良い時。そういう時は迷わず買ってしまうに限ると、過去の経験が教えてくれます(買って、あまりに難しくて途中で放棄することもあるけど)。

それはそれとして、わざわざ足を運んで選びに選んで買った本と、誰かがSNSで薦めて「読まなきゃ」となって買った本を見比べると、手に取ったあとの「粘り」に差が出る気がします。粘りというのはつまり、読み出した後、「難しいかも」「合わないかも」と思った時の手放すタイミングとでも言えばいいでしょうか。本屋で選んだ本は不思議と諦めが悪く、ネットで選んだ本は諦めが良いんです。あくまで個人的な感覚ですけど

そんなことを考えていたら、高校から大学の頃の「音楽との付き合い方」を思い出しました。ひと昔前は、音楽はCDでしか聴けなくて(テープもMDもあったけど)、お金もない学生の頃の僕は、中古CD屋に足を運んでは、雑誌の音楽ライターの評価を頼りにCDを買ってました。で、買って聴いてみると、良いと思うこともあれば、刺さらないことも結構あったりして。でも、「ひょっとしたらそれは自分の感性が弱いからなのでは?」などと思い込んでは、何度も聴き込んでみたりもしました。今みたいに手元で膨大なリストの中から簡単に「音楽」をチョイスすることもできなかったから、それを聴くしかなかった、というのもあるのでしょうけど。とにかく、当時の音楽との向き合い方と、わざわざ本屋で本を選ぶことには共通する「粘り」があると思ったわけです。

で、その「粘り」は手放してはいけない、いや、むしろ年齢を経るほど手につけなくてはいけないのではないか、と思うわけです。確たる論拠となるようなものはないですが、最近仕事で、ベテランの方に立て続けに話を聴く機会があってよりそう思うようになりました。

そのひとつがこちらのツイートの通りです。

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確たる根拠はないけれど「そうかもしれない」と思うことは、日々の生活や仕事の中で結構あると思うんです。普段は通り過ぎてしまうそういう感覚が後々顔を出してはヒントを与えてくれることも。正解やノウハウばかりが並ぶSNSでは発言することに気が引けてしまう「なんとなく」を月に2回を目処に書き残していきます。読んだ方々にとって、日常の「小さな兆し」に気づくきっかけになれれば。

仮説の手前

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