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仮説の手前 22

とある取材で、ある領域の学者が日本の大学の悪しき慣習のひとつとして「前例主義」がある、という話をされました。その話を聞いていた取材陣は、「あぁ」と、腑に落ちるような、何かを思い出して苦々しくなるような、そんなザラっとしたリアクションで空気が重たくなりました。

こういう時によく比較対称として出されるのがアメリカなのですが、アメリカの大学では前例を持ち出すと「で、お前はどう思うんだ?」と言われるらしいです。その学者も、アメリカの大学在学中によく教授から「勉強しすぎだ」と指摘されていたとのこと。

「勉強しすぎ」とはつまり、文献(過去)に当たりすぎている、ということで、そんなことではいつまで経っても「新しいことは発見できない」ということかと思います。「勉強しない=何もしない」ではなく、創造的な時間を作れ、という意味合いだと思いますが、それはまぁ、端的に言えば「書を捨てて外に出よ」ということなのだと思います。

僕は僕で、大学のゼミでレポートを提出した際に教授から「君のはレポートではなくエッセイだな」と嘲笑されたことがあります。実際にレポート内容としてもレベルが低かったのはたしかです(その頃はゼミよりサークルに熱を上げていましたから)。なので教授の嘲笑いたくなる気持ちも十分に理解できます。ただ、その時になんとなく感じたのは、「自分が感じたこと」というのには価値はなくて、「既に周知の事実となっていること」に価値があるということでした。もっと言えば、「大人」は「個人の意見」など求めていないということを突きつけられたような気持ちにもなり、若干落ち込みました。

そこから能天気なのが僕なのですが、「あ。でも僕の書いた文章は“エッセイにはなっている”んだ」とちょっと嬉しくなったことも事実で、今言葉に関係する仕事に携わっていることを考えると、その教授はいいアシストをしてくれたような気もします(いいか悪いかはわからないですが)。

少し脇道に逸れました。話を戻すと日本のこの「前例主義」というのは、結構大きな問題を孕んでいると思っています。ここから先は具体的な話は避けながら書いていきます。少し読みづらいかもしません。

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確たる根拠はないけれど「そうかもしれない」と思うことは、日々の生活や仕事の中で結構あると思うんです。普段は通り過ぎてしまうそういう感覚が後々顔を出してはヒントを与えてくれることも。正解やノウハウばかりが並ぶSNSでは発言することに気が引けてしまう「なんとなく」を月に2回を目処に書き残していきます。読んだ方々にとって、日常の「小さな兆し」に気づくきっかけになれれば。

仮説の手前

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