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個人的な言葉を取り戻す年に

昨年1年を振り返ってみてもどうにもぼんやりしてしまう。

仕事が単調だったわけではない。コロナの影響で一時足が止まりそうになったものの、その後はむしろ急加速的に物事が進み、より広範囲に目と手が届くようになった。昨年末にはしっかりと今年の種まきもし終えてひと段落といったところでもある(ちょっと詰め込み過ぎて頭が痛い)。

私生活では、昨年は猫を飼い始めたし住む場所も変えた(リノベーションもした)。「新しい生活様式」という言葉が世間を賑わせている中で始めた家づくりだったこともあって、ワークスペースを取り入れた心地のいい家にすることができた。

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並べてみると昨年はそれなりに動きのあった1年だったようにも思う。

それでもなんとなくぼんやりしている。そんなことだから、年をまたぎぼんやりした頭(正月特有の緩み切った頭)でいわば義務的に昨年の出来事を思い出しては今年の抱負を導かんと、こうして無理矢理書き出している。

年初特有のごくごく個人的なルーティンである。

個人的な。

そういえば、昨年は「個人的な言葉」を遠ざけた1年でもあった。もっと正確に言うなら、反射的に感じたことを言葉にすることを退けた1年だった。

「個人的な言葉」について振り返ってみる。

コロナ以降(改めて振り返ると「コロナ以降」という切り取り方がしっくりくる)、これまでの「当たり前」にノーを突きつける声が大きくなった。SNS上で繰り広げられる切実な怒りを伴った「ノー」のシュプレヒコールは、ヒリヒリとした痛みを伴って僕の元にも届いていた。

そんな怒りの声を目にしながら、恥ずかしながら自身の無知さも相まってうまく腹に落とすことができなかった。さらに強い言葉は食あたりのようにダメージを与えてくるから、徐々に目を逸らすようになった。

そこに追い討ちをかけるような「自粛生活」が生活を覆う。これまで当たり前のように交わしていた知人や仕事仲間との何気ない会話、市井から感じる空気がシャットアウトされ、「人の気」が遠ざかったことで、自分の中から言葉が生まれるきっかけが奪い取られてしまった。

言葉を発することは意思の顕れでもある。意思が先にあるのか、言葉が先にあるのか、その議論は脇に置くけれど、現実的なこととして、うまくまとまらない感情をつかまえてモヤモヤしたまま言葉にし誰かと対話することで、自身の埋もれていた意思に気付き、きれいな言葉を連ね文章にすることで意思が出来上がる。そうゆう循環はある。

この循環が剥奪された結果、手元には霧のようにモヤっと揺蕩う言語化されない感情だけが残されたことになった。

この循環の剥奪が「個人的な言葉」を遠ざけ、1年をぼんやりさせた原因のひとつのように思う。

仕事の面でも「個人的な言葉」を遠ざけた1年だった。

僕の仕事は、端的に大雑把に言えば「あまり表に出ない社内の声や活動をしかるべき外の目に触れさせることで、外からの見え方を変える」ということになる。

今の仕事における理想的な状態は、社内からは「声を届けてほしい」という願い出があり続け、外の目からは「次が楽しみだ」と期待され続けている状態を維持することである。

表に出ない社内の声を集めるためには、社内、つまりは「内側」と対話し続けることが必要だ。そして、しかるべき外の目に触れさせるためには、どのような外の目があるかを識る必要がある。

そのために肝要なのは、内側と外側の関係性をバランスよくキープすることなのだけど、これが案外難しい。

内側に足を突っ込み過ぎれば過度な「肩入れ」に繋がり、外側に足が向き過ぎれば過度な「批評」に繋がるからだ。

昨年は内側から多くの声が届いた。内側から声がかかることは気持ちがいいし、真摯で時に切羽詰まった声を聞けば、全力でサポートしたいと思えた。

しかしながら、声がかかり続け期待を受ける一方で、肝心の成果と言えば、個人的なことを言えば到底満足ができるレベルではなかった(あくまで完全に個人的なスキル不足に由来するもので、並走していただいた方々は最高のパフォーマンスをしてくれました)。

そんなジレンマにあっても、内側からの声に向き合っている間はモヤモヤを紛らわすことができた。

でも、時に辛辣である外と対峙することを避け「分かり合える」安心感のある内側に「逃げ道」を作ることで、自身のスキル不足を棚上げし続けていたことは目を背けることのできない事実だ。そのことに気づきながら過ごす日々は余計にモヤモヤを募らせることになった。

あくまで個人的な感覚であるけれど、外に晒されないということは、好奇心を奪い思考の瞬発力を奪う

モヤモヤを抱えながら仕事に必要なひとつの「筋力」が削がれた結果、外への発話がガクンと減ることになった。

足元がうまくいってないのに、いけしゃあしゃあと自身の仕事のカテゴリについて語るわけにはいかない。遮断してしまった「外」で何が起きているかもわからないから思うことがあっても見当違いのことを言っているかもしれない。そんな不安がずっと腹の底にへばりついた1年だったように思う。

仕事における「個人的な言葉」が減ったことで、好奇心の種である「外」からの刺激がより薄まるという悪循環を生んだ。最終的に仕事面においてもぼんやりとした1年になってしまった。

今年は「個人的な言葉」を取り戻す年にしたい。そしてせっかくなら個人的な言葉を、「外の近い人たち」と共有して新しい個人的な言葉を獲得したい。その循環を身体に取り入れ、本業や暮らしに活かしたい。

「個人的な言葉」に興味のある方がいればご一緒しませんか?

来月以降、この場をクローズ(有料化)していく予定です。その場では個人的な言葉を月に数回を目処に落としていく予定です。

有料にしたのは、今のところ有料という「ハードル」が心地いい循環を作りうる関係を築ける場になる手段だと思ったからです。

参加してくれた方とは、こことは別に対話をする場を設けられたらと思っています。オンラインで話すとか、近ければリアルで雑談するとか。そういう場を今年は作っていけたらと思っています(そのあたりの場づくりは得意な人にお任せしたいけれど)。

また詳細はここでお知らせします。
それでは2021年もよろしくお願いします。



ありがとうございます。 サポートって言葉、良いですね。応援でもあって救済でもある。いただいたサポートは、誰かを引き立てたたり護ったりすることにつながるモノ・コトに費やしていきます。そしてまたnoteでそのことについて書いていければと。