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現象学的社会学とは何か。:『生活世界の構造』(アルフレッド・シュッツ トーマス・ルックマン著)を読んで。

本書は、現象学でおなじみのフッサールの高弟で現象学を社会学へと結びつけたシュッツが構想し、その死去後にシュッツの弟子であったルックマンが受け継いで出版したものです。逝去した師匠と、弟子との無言の対話が垣間見えるようでなんとも興味深い書でした。

ここしばらく、解釈主義的な社会学を細々と読み続けているのですが、本書も決して読みやすいとは言えません。社会学が好きであったり、経営理論の背景にある(あまりにも)骨太な思想を理解しようとする人にのみオススメします。

本書ではいくつかの二項対立を描きながら、フッサールよろしく、その対立をカッコに入れて読み解こうとしています。ここでは、特に印象的であった二つに絞って見ていきます。

(1) 日常生活世界はあるのか?

私たちが生活する目の前の世界は客観的に存在します。私の目の前には、シュッツとルックマンの書籍があり、特定の頁を押えるためにiPhoneが乗っています。これは客観的な事実のようです。

他方で、私たちは世界に働きかけて介入することで世界の有り様を変えることができます。つまり生成的に世界を生み出すとも表現できそうです。私は、いまMacBookのキーボードを通じてこの内容を入力し、フォントがディスプレイに表示されています。少ない程度ではあっても、能動的な働きかけが、私にとっての目の前の世界を創り出していると言えるでしょう。

(2)主観は個人のもの?相互的なもの?

「この私」が主観的に構成する世界というものはたしかにありそうです。いま私が思っている認識を100%正しく他の誰かに共有することはできそうにありませんし、そうした意味では主観的な世界というものは存在すると言えます。

他方で、その主観的世界は、あらかじめ他者と共有する相互主観的な世界であるとも言えます。私が思い描く主観的世界の構成要素の一つには、今まさに私が書いているこのブログがあり、数時間後には公開されることで偶然目にした読み手に何らかの反応(つまらなそうだなとすぐにディスプレイから除くことも含めて)を促すことになります。

哲学書とは、当たり前を疑い、自分で考えるための素材

対立的に捉えられるものを問い、考えさせるというのはまさに哲学と言えそうです。少し立ち止まって、日常を違う角度から新鮮な目で見てみたいときに、読んでみたい一冊です。


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