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フッサールと西田幾多郎と臨床の知:『臨床の知とは何か』(中村雄二郎著)を読んで。

大学院の授業で紹介され、興味を持ちながらも積読状態だった本書。ようやく読めました。秋に苦労しながら読んだフッサールやら、これから扱おうとしている西田幾多郎やらも出てきて、学びが深まる一冊でした。

本書を読むのは高校三年のとき以来です。あの頃は、近代とポスト近代、理性と感性、科学と自然、機械と身体など、自身がよく知っている観点に引きつけて「知っていることばかりだな」と勘違い読書で済ませてしまってました。改めて本書と向き合ってみて、「こんなことまで書いてあったのか!」と初読のような印象を持つ読書体験でした。

科学の知と臨床の知

本書では、著者がなぜ書名にもなっている臨床の知という着想に至ったのかが丹念に記されています。対象概念である科学の知については、直観的にも理解できるかと思うので詳しくは書きませんが、(1)普遍主義、(2)論理主義、(3)客観主義、という三つの原理から成り立っている「<機械論>的な性格」(129頁)であるとだけ述べておきましょう。

臨床の知は、科学の知の三つの構成原理と対比して、以下の三つの原理から成るとしています。

臨床の知の構成原理(1)コスモロジー

普遍主義は、場所や空間を没個性的で均質的な拡がりとして捉えます。それに対して、コスモロジーは「一つ一つが有機的な秩序をもち、意味をもった領界と見なす立場」(133頁)を取ります。つまり、それぞれの場所や空間が一つのコスモス(宇宙)として存在するという考え方です。

臨床の知の構成原理(2)シンボリズム

論理主義は、一つの記号が一つの意味を論理的に規定するのに対して、シンボリズムは「物事をそのもつさまざまな側面から、一義的にではなく、多義的に捉え、表す立場」(134頁)としています。

臨床の知の構成原理(3)パフォーマンス

客観主義が静的なアプローチであるのに対して、パフォーマンスは動的です。アクションは個人に閉ざされているのではなく、「行為する当人と、それを見る相手や、そこに立ち会う相手との間に相互作用、インタラクションが成立していなければならない」(135頁)と言えます。

西田の<行為的直観>との関係性

専門家の方からお叱りを受けそうですが、三つの構成原理をまとめると、自律的で、多様で、動的な知のあり方と言えそうです。これらの考え方は西田幾多郎の<行為的直観>と近く、実際、著者も「私のいう<臨床の知>に思いのほか近かったことがわかる」(140頁)としています。

 行為は物があるから起こるのだが、その物は<見られる>ものであり、歴史的に形成されたものなのである。われわれは、行為によって物を見るのであり、物がわれを限定するとともに、われが物を限定している。そういう相互作用が<行為的直観>なのである。そして、この場合のわれとは身体性を帯びた自己なので、行為的直観は《物を身体的に把握する》ことだとも言える。(140頁)

難解な西田哲学のエッセンスにも触れられる、素敵な一冊でした。

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