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国語の修行 

 職場の後輩が教えてくれたJBL社製の小型ポータブルスピーカーを買ってみた。とても調子が良い。音質もパワフルで、中音域が前面に押し出されているから、空間が広がるような聴き心地である。これで4000円とは。

 

 何度となく『神田橋語録』(http://hatakoshi-mhc.jp/kandabasi_goroku.pdf)を読み返してしまう。読むことが心地良いからだろう。医者の書いた文章というのは、何か不思議な響きがするものである。医学という学問は、元来、自然科学と人間科学の融合であるはずだろう。平たく言って、医者は頭が良いのである。見ている世界が違うという感じがする。で、この神田橋語録は、長年の臨床から得た経験が、結晶作用を起こして、大胆なまでにシンプルな、分かり易い言葉で表現された感じである。もとい、これは神田橋さんご本人の著作ではなく、氏の勉強会に参加した人によって編まれたものであるそうだ。文脈というか気脈というか、その場の参加者たちにだけしか分からない言葉もある。だが、それは言葉の本来の形であるとも言える。口述筆記の価値は、文脈を置き換えて理解するより仕方ないことにあるとも言えないだろうか。何が言いたいのか。つまり、神田橋語録の価値は、自分の生活に落とし込むことを許してくれそうな、その文脈の自由さにあるのではないか、ということだ。

 内面を見つめるような反省は、自己嫌悪を催すだけで、苦しくなるだけだ。行動があり、情熱があり、その場その場で計画と見通しが生まれ、適時修正とやり直しの必要が出てくる、その時に初めて努力する。まず行動が先にある。その後に、予定が生まれ、現実との調和を図る余裕も生まれる訳だ。私の場合、まず行動、まずやってみる、行ってみる、経験してみることが大事である。

 これは内面を見つめるための日記ではない。私の眼は世界を観察する方が向いているのだ。これは適性の話。生活が単調にならないようにしなければ。絶えず変化するものに思考を向けたい。

 中学受験の国語の勉強をしようと思っていたが、これがなかなか難しい。国語の読解力とは、知識であるのか、技法であるのか、理論であるのか、経験であるのか。妥協的な言い方をすれば、それは両方であり、その調和であり、そのアウフヘーベンされた物であり、状態である。では、国語の知識、理論とは何か。それは単純素朴に言って、漢字の知識、国文法の知識であろう。一方の国語の技法、経験とは何かと問えば、それはやはり読書と作文、しかも幅広いジャンルの読書と作文であろう。

 文章読本というジャンルがある。色々な作家が書いている。有名どころでは谷崎潤一郎、三島由紀夫、川端康成、それに劇作家の井上ひさし、英文学者の丸谷才一。そういう物を読むこともまた勉強になる。

 ということで、国語の勉強は四つに分かれる。国語辞典を読むこと、国文法を勉強すること、古典を読むこと、そして作文することである。丁度、手ごろな辞書と文法問題集がある。まずは以下の二つを試してみる。

 


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