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「とにかく」と「なんとか」

 坂口恭平さんの文章を読む。とても正直な人だ。とても実践的な人だ。とても繊細であると同時に、またとても合理的な人だ。配慮の人だ。素直な人だと思う。率直な言い方をして、尚、失礼にならない。大学院の時にお世話になったO先生もそういう人だったが、それはきっと美徳から来るものだ。小林秀雄が三木清と対談したとき、パスカルが話題になった。二人が一致したところ、パスカルは「原始人」である。それは、確かにそう言われたらそうだなと思った。あの手掴みの感覚。私は、坂口さんにもそういう、何かしら原始人的な感覚を覚える。素朴さというよりも、原始的である。

 ダイエットを再開した。だが、なかなかうまくいかない。それはきっと自分のために、自己利益を目論んで、下心を働かせたからである。私も、きっと「躁鬱人」なのかもしれない。ということは、全て他人の為と思ってやるといいのだろう。他人の為、ではなく、他人から褒められるためである。いわゆる「承認欲求」というやつなのかもしれない。つまり、とても単純な精神なのだ。褒められたら嬉しい、嬉しいからもっとやる、という加算的な精神構造なのだ。将来の自己利益を見込んで、計画的に、或いは、「政治的に」頭と心を働かせることが根本的に不得手なのだ。

 それはダイエットに限らない。仕事もそう。友人関係もそう。勉強もそうだ。趣味の領域もそうである。自分の生活を、自己目的的に送ることができない。つまり、目的はいつも他者に開かれている。その割に飽きっぽい。否、特異的に忘れっぽいのである。それは、きっと世界がそれだけ流動的に変化しているからだ。絶え間なく変化する他者の承認欲求を得ようと求めるが、普通の人から見れば、「その場凌ぎ」の、嫌味な言い方をすれば「偽善的な」言動を選択することになるのだろう。

 人から嫌われるのを極度に恐れる。だが、同時に、正義が蹂躙されるのを見過ごすことができない。だが、本当のところは、自分が不快なだけなのだ。他人が苦しむのを見ていられない。他人が自分のために苦しむのなら、すぐに立ち去らせて欲しい。キルケゴール。私は、そういう時、キルケゴールのことを考える。倫理のことを考えるからである。西洋の倫理と東洋の道徳のことを考える。宗教に走るというが、私は、その切羽詰まった感じが嫌いである。或いは、宗教にせよ、倫理にせよ、道徳にせよ、私は既に知っているような気さえする。問題は実践である。

 問題は実践である、だが、実践とは即ち選択であり、選択とは即ち偽善である。だから人生が嫌になる。本当に嫌になる。この状態が鬱である。そういう時に、私は投げ遣りになり、自暴自棄になる。自己嫌悪に陥り、反省する。だが、本質的に反省とは無関係の人生を送ってきたので、一貫性や統一感を見出すことができず、何か本当に空っぽな、空虚さのみを感じてしまう。それで余計に苦しむ。

 空っぽであることを肯定するのは仏教かもしれない。色即是空空即是色というではないか。だが、別に私は仏教徒になろうとは思わない。否、私はどんな宗教にも属することができないだろう。私の空虚さは、何かに所属することで埋められるものではないからだ。虚無的とは、何も悪いことではない。虚無的であるとは、私の人生、或いは「躁鬱人」の人生にとっての条件ですらある。それを、既存の何かに落とし込んで、「ちゃんと」しようとするから、「窮屈」になる。

 なぜ私はここ数年来鬱なのか。それは世間の人々が苦しんでいるからである。周囲の人間が苦しそうだからだ。ひとえにそれだけの理由である。父も母もあまり幸福そうに見えない。中高大の同級生、先輩後輩も、なんとなくだが、大変そうである。職場の人々も、その日その日を何とか遣り繰りしながら、格闘している。日々接する子供たちも、何かに追われ、制度に飲み込まれ、発散できない怒りやストレスを心の奥に仕舞い込んでいる。異国に目を向ければ、ロシアとウクライナは戦争している。経済はスタグフレーションを起こして、文明国は軒並み疲弊している。アフリカ諸国は内戦や飢餓で苦しんでいると聞く。呑気に構えているのは、インドとカナダとオーストラリアとくらいだろうか。いずれにしても、日本は、私が生きてきた、たった30数年の間でも相当に「空気」が悪い。雰囲気が悪い。ムードが無い。落ち着かない。気持ち悪くなってくる。下品なことを下品に言ったりやったりするのを見ることがとみに増えた。昔は、下品なことを上品に言ったり、上品なことを敢えて下品に(ズラしたり)見せて、その落差を笑う余裕があったが、今は無い。とにかく余裕が無い。隙間が無い。隠れ場所が見当たらない。逃げ場が無い。闘争か、さもなくば死か。政府に対しては、信用とか闘争とか、そういう次元ではない。もはや、あってないようなものでさえなく、存在すらしていない。崩壊しかけているのではなく、もうとっくの昔に崩壊している。誰もそれに気が付かないだけで、もう何もない。ここには何も無い。期待する相手がいなければ、怒りも湧かないのは当然だ。元々政治的なことには疎いから、勉強してもなかなか理解は進まないだろうが、新聞や雑誌を見る限り、大変な混乱状況だ。敏感な人は日本脱出に向けて行動しているらしい。この時代状況は、明治大正昭和にかけての近代国家建設の時代と似ているという識者もいる。国家が迷走している。私は、日本を憂う三島由紀夫ではないが、どうしたって「幸福」や「安心」を得られそうにはないことをぼんやりと考えている。

 パッションの語源は「共に苦しむ」であるそうな。「共苦」という言葉を聞いたこともある。如何にしてやり過ごすか、という問題設定の方が現実的だというのも、分かるには分かる。だが、その貧乏臭さたるや!「躁鬱人」は、そういう貧乏臭いのが、しみったれな根性が嫌いなのである。せせこましい。未練たらしい。往生際が悪い。一言でいえば、「ダサい」のである。私はもっと椀飯振舞(おうばんぶるまい、ってこう書くのか。知らなかった。)にやりたい。国家がどうなろうが、世界情勢がどうなろうが、文明が破滅しようが、そんなことは私の人生と何ら関係ないではないか。関係するのだという向きもあろうが、関係させないというほうに持っていく、それが「躁鬱人」のパワーである。悲観主義も楽観主義もない。極めて実践主義である。それは、つまり、実存的といっていいのだろうか、良く知らないが、実存的とは、躁鬱的ということだろうか。プラグマティックということだろうか。名付けにあまりこだわらない。それは後から付いてくるものだ。

とにかく、なんとか、するのである。私の思想はこの一言で尽きる。大義名分はいらない。方法論も必要ない。名付けは必要ない。名付けようのない体の動き、心の動きがあるだけで十分である。

 読み直してみて、本題に入ったのに展開がしていないことに気が付いたので、今書き足して、編集している。

 キー・ワードは「とにかく」と「なんとか」である。辞書で引いてみる。

とにかく
《副詞》
①他の事柄は別問題としてという気持ちを表す。何はともあれ。いずれにしても。ともかく。「とにかく話すだけ話してみよう」「間に合うかどうか、とにかくいってみよう」
②(「・・・はとにかく」の形で)上の事柄にはかかわらないという気持ちを表す。さておき。ともかく。「結果はとにかく、努力が大切だ」
(用法)
「時間だから、とにかく出発しよう」「とにかく現場を見てください」のよに、細かいことはさて置いて、まず行動という場合に用いられる。

なんとか
《副詞》
あれこれ工夫や努力をするさま。どうにか。「そこをなんとか頼む」「何とかしよう」
完全・十分とはいえないが、条件・要求などに一応かなうさま。かろうじて。どうにか。「なんとか暮らしていける」「なんとか間に合う」

 繋げてみると、「細かいことはさて置いて、即行動し、条件・要求にかなうよう、あれこれと工夫し努力する」さまのことである。まさにその通りである。ここには大切なことが暗に示されている。それは、全て相手があってのことだ、ということだ。条件や要求をしてくれる他人がいなければ、即行動も、工夫・努力もない。自分一人で独立し、自己完結する思想ではない。これは循環的、円環的、スパイラル的な構造ではないのだ。これは往還的、相互作用的、協働的な動きそのものである。

  坂口さんの言葉を参照すれば、その場合の「他人」とは目の前にいる必要は無く、心の中で念じる観念的な存在でも良いらしい。つまり、誰かのことを思いながら、これはきっと彼・彼女、彼ら、彼女らに役立つに違いない、役立てばいいな、喜んでくれるだろう、また褒められるだろうな、と思えるくらいのリアリティのある他人であれば良いということだ。決して自己利益のために行動して上手く行った試しがない。大抵失敗する。或いは、どこかで他人の目を気にしているから、満足できない。引け目、負い目を感じてしまう。自分だけこんなことをしていて良いのだろうか、と思ってしまうということだ。

 宮沢賢治が言っていたが、今の世の中、というのはつまり近代化、文明化された世界では、自分一人が最高に幸福で健康で裕福で安心できる生活を何の苦労もなく享受できるということなど、有り得ないのである。そこには多数の犠牲が、自分以上に尊い生命が下積みされている。個人の幸福が達成されるとすれば、全世界の全生命の幸福が一つ残らず救済されて初めて到来するであろう。宮沢は田中智学に傾倒していて、日蓮主義だった。私はどの宗派にも属していないが、概ね意見は同じである。個人の自由や幸福など、基本的には来世の話である。で、それは当たり前の話過ぎて強調する必要を感じないだけである。

 で、どうるのか。何をするのか。どこに他人が居るのか、私を必要としてくれる他人が。それは、目の前にいるではないか。わざわざ探すものでもない。私は個別指導塾の教室長をしている。子どもはいくらでもやって来る。その倍の数、保護者つまり父親と母親がいるのである。その倍の倍、祖父母がいるのである。何の話をしているのかというと、つまり、観念の中に求めずとも、現実の、目の前に他人が居るという単純な事実を指摘したいだけだ。まずは、自分の塾に来る生徒とその家族を救おう。マーヴィン・ゲイも、"Save the Childlen"と叫んでいる。救うとは、つまり、面倒を見る、世話をする、一緒に時間を過ごすということだ。

 他人の為に生きる仕事が向いている。ということはこの仕事は適職である。生活のすべて、全領域、全神経を、奉仕という目的に定める。それが私、つまり「躁鬱人」の生き方として最適化された、ということである。お金も大事、だがそれ以上に、他人の為に生きているという実感が大事である。

 自己管理も、他人の為。食事制限も他人の為。ダイエットも他人の為。勉強も他人の為。金を稼ぐのも他人の為。趣味も他人の為。健康も他人の為。幸福も他人の為。それが実現すれば、一番良い。

 偽善的に聞こえるだろうが、本音である。ブログも他人の為に書いている。他人に喜んでもらって褒めてもらうためである。ということは独善的なんだろうか。まあ、そんな細かいことは抜きにして、とにかくなんとかして、他人に尽くしたい。




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