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マクベス

“コーエン兄弟”の新作がこれで2作続けて配信映画となっている。
“コーエン兄弟”クラスでもアート性の強い映画の拡大公開は難しい時代になってしまったということだ。
特にコロナ禍になって、ゆっくりと映画館でアート性の高い作品を見るという習慣はなくなってしまったようにも思える。

米国の2021年の年間興収ランキングを見てみると、トップ10のうち5作がアメコミ原作映画だ。
しかも、全てマーベルもの。「スパイダーマン」と「ヴェノム」は続編ものだし、「シャン・チー」、や「ブラック・ウィドウ」、「エターナルズ」は単独ものではあるけれども、これまでのマーベル映画とリンクする作品だったから、実質シリーズものだ。
残りのマーベルに関係ない5本のうち4本もシリーズものだ。年間トップ10内で唯一の“新作”は「フリー・ガイ」だけ。

日本の2021年の年間興収ランキング(邦画・洋画合わせたもの)を見てみると、年間トップ3が全てアニメ 映画だ(しかも、上位2作品はテレビアニメの劇場版)。
さらに、アニメ ・コミックの実写化作品(要はマーベル映画みたいなもの)が2本。アイドルのライブの様子を収録しただけの映画とは言えないようなものまで入っている。
さらに、続編ものが2本。このうちの1本である「ワイルド・スピード」は年間トップ10内で唯一の洋画だ。
残り2本が純粋な“新作”となるが、そのうち1本はほとんどコントの福田雄一作品だからね…。
となると、純粋な“新作”としてヒットしたのは「花束みたいな恋をした」だけということになる。

結局、米国ではマーベル映画やシリーズもの、日本ではアニメ映画やシリーズものしかヒットしなくなってしまっているということ。

日本人は海外で評価された日本人とか日本映画とかをもてはやすのが好きなのに、2021年度の米映画賞レースを賑わせている「ドライブ・マイ・カー」なんて、ネット情報によると興収0.3億円しかあげていないらしい。

こうした賞レースを賑わせた作品の興行成績がふるわないのは米国も同じだ。
2020年度のアカデミー作品賞を受賞した「ノマドランド」の全米興行収入はたったの370万ドルだ。洋画不況と呼ばれて久しい日本での興収がほぼ同レベルの4億円だから、いかに米国で大コケしたかが分かる。

そんな状況なんだから、“コーエン兄弟”の新作が2作続けて配信映画になってしまうのも仕方のないことなのかもしれない。
それでも、Netflix映画の「バスターのバラード」は日本では劇場上映されなかったのに、Apple TV+配信作品の本作「マスベス」は配信に先駆けて日本でも限定公開されたのだから、多少は改善されているのだろう。

ところで、本稿では“コーエン兄弟”について、「かっこ付き」で表記しているが、それにはワケがある。
本作は兄・ジョエルの単独監督作品としてクレジットされていて、弟・イーサンの名前がないからだ。
かつてのように、便宜上、監督のクレジットをジョエルとし、製作のクレジットをイーサン。脚本を2人の共同にするというものでもない。

弟のイーサンのクレジットが製作にも脚本にもない、完全なジョエル単独作品となっている。

海外発の報道によると、決して兄弟仲が悪くなったわけではないようだ。
イーサンが映画製作に興味を失った。もしくは、今回のプロジェクトに興味を持てなかったといった感じの報道がされているようだ。

前者の場合はもう、どうしようもないが、後者が理由だとしたら納得はできない。

“コーエン兄弟”作品というと、オリジナル脚本のイメージが強いが、「レディ・キラーズ」や「トゥルー・グリット」はリメイク作品だし、「オー・ブラザー!」は叙事詩「オデュッセイア」の翻案だ。
だから、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲という原作があるからという理由で、本作に興味を示さないという理由はあまり考えられない。
となると、やっぱり、映画製作への興味が薄れたということなのだろうか。

そういえば、最近ってシェイクスピア戯曲の映画化作品って少ないよね。
1989年のケネス・ブラナー監督・主演作品「ヘンリー五世」が賞レースを賑わせて以降、2000年代初頭にかけて、シェイクスピア原作映画が色々と公開された。

ケネス・ブラナー関連では、監督・主演で「から騒ぎ」、「ハムレット」、「恋の骨折り損」。出演作品では「オセロ」があった。
このほか、劇中劇として「リチャード三世」が登場するドキュメンタリー「リチャードを探して」にも出演していたし、さらに「ハムレット」を演じる落ちぶれた役者を描いた「世にも憂鬱なハムレットたち」の監督も務めていた。

ケネス・ブラナーが登場するまではシェイクスピア映画の第一人者だったフランコ・ゼフィレッリ監督の「ハムレット」もあった。

また、バズ・ラーマン監督によるスタイリッシュな映像と、カーディガンズやレディオヘッド、デズリーなどが参加したサウンドトラックで人気を集めた「ロミオ+ジュリエット」、テレビドラマ「アリー my Love」で人気を集めたキャリスタ・フロックハートの起用で“アリー”風の作品となった「真夏の夜の夢」といった新感覚シェイクスピアものも作られた。

さらに、「ロミオとジュリエット」執筆当時のシェイクスピアを描きつつ、シェイクスピア戯曲の「十二夜」のようなストーリー展開をしていく「恋におちたシェイクスピア」はアカデミー作品賞を受賞した。

なので、ここ最近、シェイクスピア映画が少ないことに関しては物足りなさを感じて仕方ない。
それでも、「ロミオとジュリエット」を翻案した「ウエスト・サイド物語」のリメイク「ウエスト・サイド・ストーリー」や本作が公開され、賞レースを賑わせる作品となっているし、ちょっと前にはシェイクスピアの晩年を描いた伝記映画「シェイクスピアの庭」も公開されている。
そろそろ、シェイクスピアブーム再来となるのだろうか?

作品自体はやけに舞台っぽい作品だった。台詞の言い回しにしてもそうだし、前半はほとんどがセットに見えるようなロケーションで撮影されたシーンで構成されていた。
勿論、カット割りとかは舞台ではありえない編集になっているし、後半には明らかにロケ撮影のシーンも出てくるので、全てが舞台的というわけではないが。

おそらく、主要キャラクターを黒人俳優に演じさせているという“不自然”な要素の印象を薄くするために舞台っぽくしているのではないかと個人的には思う。
日本でも、日本人俳優が海外戯曲の外国人名キャラクターを日本語で演じたりするが、誰もそれをおかしいとは指摘しないが(最近の米国はこういうのをおかしいと言いだしているが)、それと同じで舞台っぽい演出にすれば、黒人が歴史物で白人の役をやっていても気にならないという配慮なのではないだろうか。

また、映像はモノクロで、画面サイズはスタンダードとなっているのは、ケネス・ブラナーよりも遥か昔の時代にシェイクスピア映画で監督および俳優として評価されたローレンス・オリヴィエの頃の雰囲気を出すという狙いもあったのではないかと思う。
と同時に、古い映画のように見せることで、黒人俳優や女優が演じる悪役を黒人らしく、女性らしく見せない狙いもあるのではないかと思った。

ところで、本作をヒューマントラストシネマ有楽町で鑑賞したが、劇場側がそうしたイレギュラーな画面サイズ作品の上映に合わせた対応をしておらず、画面の下部が切れた状態で上映されるというミスが起きてしまった。当然、翻訳字幕はほとんど読めない状態だ。

幕間やCM・予告上映時から、画面の上部や下部は切れていたが、映画館によっては、本編上映開始時にスクリーンサイズを切り替える人間を配置できないことから、幕間やCM・予告上映時はあえて放置して、ずっと本編用のサイズのままにしているところもあるので、そのクチかなと思ったりもした。
まぁ、これはこれでCMを出稿した企業や、次回以降上映作品の関係者、CMや予告も貴重な情報源と思って金を払っている映画ファンに対して失礼極まりないんだけれどね。

でも、本編が上映開始されても、画面の一部が切れたままだった。公開初日の初回ならまだしも、そうでないのにこういうトラブルがあるというのは映画をナメているとしか言えない。

苦情を言った観客がいたのか、スタッフが自ら気づいたのかは分からないが、数分経って、頭から上映やり直しとなった。 
自分が上映スクリーン内に入った時にチケットを確認するスタッフもいなかったし(なので、検温も有耶無耶)、おそらく人出不足なんだろうね。

いまだに映画業界は「好きなことをしているんだから給料は安くてもいいでしょ」ってのをやっているが、それはダメだよ!
業界最大手のTOHOシネマズの支配人候補正社員の募集広告でも驚くほどの薄給が提示されているしね。
いい加減、ちゃんとした給料を払わないと映画館という文化は廃れるぞ!

それから、上映終了後にスタッフがお詫びを言うのはいいんだけれど、普通は上映ミスがあった場合って、きちんと上映をやり直したとしても、次回以降利用できる招待券とか割引券とかを配るのがスジでは?まぁ、そんなことをしている金銭的余裕もないんだろうけれどさ。

あと、“上映終了がおしてしまいすみません”って謝罪コメントもダメだよ!
バラエティで芸能人が平気で使うから一般人も“おす”という言葉の意味は理解しているけれど、あれはあくまで“業界用語”なんだからさ!
普通に“上映終了時間が予定より遅くなった”でいいんだよ!
まぁ、“おす”という言葉を使えば、“予定より遅くなった”と言うよりも遥かに短い時間で済むけれどね。結局、余裕がないから省力することを考えてしまうんだろうね。

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