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マッドマックス:フュリオサ

本作は「マッドマックス」シリーズとしては9年ぶり通算5本目となる作品だ。
ただ、内容は時系列的には前作「怒りのデス・ロード」よりも前の時代を描いたプリクエルだし、主人公マックス以外のキャラクターをメインに据えたスピンオフでもある。つまり、純粋な続編ではない。

そもそも、「デス・ロード」自体、その前の作品「サンダードーム」の続編なのかプリクエルなのかといったことは明言されていないし、30年もの月日が経っていることから主演俳優も変わっている。
というか、近未来を舞台にしたバイオレンス・アクションという共通項はあるが、基本はアクション映画の1作目「マッドマックス」(1979年)とSF色を強めた2作目「マッドマックス2」(1981年)だって雰囲気の異なる作品だ。

「デス・ロード」は性別や障害、人種などによる差別的な描写は認めないというポリコレ路線にハリウッドが傾きかけたという時流に乗って、過去作品と基本的にやっていることはそんなに変わらないのにアカデミー作品賞にノミネートされてしまった。また、日本でも熱心なファンを掴み大絶賛された。

でも、「デス・ロード」って、このシリーズの熱心なファンが嫌う「サンダードーム」と同じ世界観で作られた作品なんだよね。強い女性が出てくるところだって共通しているしね。

それに、AC/DC“サンダーストラック”や2パック“カリフォルニア・ラヴ”のMVは明らかに同作にインスパイアされたものだ。

また、マックスと対立する女傑(現在の感覚だとよろしくない言葉使いかな?)を演じたティナ・ターナーが歌う主題歌“孤独のヒーロー”は全米チャート最高位2位を記録し、彼女のキャリアでも全米ナンバー1ヒット“愛の魔力”に次ぐ規模の大ヒット曲になっている。

シリーズやエンタメ業界に与えた影響が大きい作品だった。

何か人気アーティストが出演し、主題歌が全米大ヒットとなり、子どもが出てくるなどファンタジー要素が強まったことから、ファンを名乗る連中は酷評したのだろうが、この人たちが同じ世界観にある「デス・ロード」を絶賛しているんだからダブスタもいいところだ。



本作は「デス・ロード」評価の大きな要因となった女性キャラクター・フュリオサの若き日々を描いた作品だ。

本作を見た人のほぼ全員の鑑賞動機の一つにフュリオサの片腕が機械の義手になった理由を知りたいといったものがあったと思う。

「スター・ウォーズ」シリーズのプリクエルに当たるエピソード1〜3でアナキンがいかに、サイボーグ化された全身黒ずくめのダース・ベイダーになるかを確認するみたいなものだ。

ところがこれは呆気ないものだった。

敵にとらわれの身となった際に逃げるために自ら切断したようだ。でも切断するシーンはない。その前に腕を負傷するシーンが強調されていたから傷が悪化して切断せざるを得なくなったりしたのかと途中まで思っていたがそうでもない。
また、腕に地図がほられていたので、地図目当ての奴が寝込みの彼女を襲って腕を切ったりしたのかと思ったりもしたがその理由でもない。というか、地図のほられた腕の“残骸”をそのまま敵地に置いていくというズボラさだ。敵にサービスしてどうするんだ?一体なんなんだ?身体欠損を単なる記号としか思っていないのでは?

いかに自ら腕を切断することが苦渋の決断であるかを見ている方が痛く感じるくらいに見せてくれたアカデミー作品賞ノミネート作品「127時間」を見習って欲しいと思う。ちなみに同作は実話を基にした作品だ。



というか、この作品、全体的にテンポが悪すぎる。「デス・ロード」もよく、“行って帰ってくるだけの映画”などと言われていたので内容は単調だった。それでも、炎のギターなどインパクトのあるシーンが連発していたし、女性や障害者などに対する差別はやめろというメッセージは明確だったから、アカデミー作品賞にノミネートされるくらいの高い評価を得ることができた。

でも、本作にはそこまでのものはない。

というか、途中で“第⚪︎章 ⚫︎⚫︎(サブタイトル)”という表示が何度も出るが、それを基にすれば本作は5部構成となっている。それからも分かるように、テレビや配信のドラマシリーズ5話を続けて見させられたような感じもする。ドラマなら個々のエピソードは分割して見れば、そこまで退屈には感じないだろうしね。というか、元々はアニメーション作品として企画されていたらしいから、アニメ5話分として用意されたストーリーなんじゃないかって気がしてきた。

最近、ダラダラと長いハリウッド映画が多いが、それって配信で視聴者が適当に分割して見ることを前提に作っているんじゃないかって気がして仕方ない。そもそも、欧米人は日本の映画ファンのように映画館でずっと画面を見ている人なんて少数派だし、上映中にトイレや売店に行きたければとっとと行くから、長尺だろうとそうでなかろうと、あんまり、観客のマインドには影響しないのだろう。

本作では尺の半分近くを使って子ども時代のフュリオサを描いている。いくら、若き日々のフュリオサの話だと事前に伝えられていたとしても、まさか、子ども時代のエピソードがそんなに多いとは思わなかった人がほとんどでは?

分量的には26週ある朝ドラでは主人公の子ども時代は2週間程度というパターンが多いから、本作にあてはめれば、第1章の部分だけで良かったと思う。

本当に残念な作品だった。

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