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「名も無き世界のエンドロール」(ネタバレ含む)

無き・無し・無いという表記の仕方が職業柄、どうしても気になってしまう。辞書やネットの知恵袋のようなものなどによると、目に見える・見えないに限らず存在の有無について描写するものに関しては、形容詞の扱いとなり、無き・無し・無いを使えるが、助動詞として使われる場合、例えば食べるのあとにつける際には、「食べ無い」とは表記できず、「食べない」と表記しなくてはいけないというようなことが記されている。

しかし、かつてはテレビの報道系番組では、どちらのケースでも無き・無し・無いという表記は使用しないというのが原則だった。無価値とか無収入のように別の単語と合わさって音読みする場合には無という字を使うが、形容詞や助動詞としてなき・なし・ないという言葉を使う時にはひらがな表記にするというのが決まりになっていた。

ところが、純粋なニュース番組というのが定時ニュースを除くとほとんどなくなってワイドショー化すると、バラエティ系のプロデューサーやディレクターが圧倒的多数を占めることになったために、無き・無し・無いも当たり前のように使われるようになってしまった。

それどころか、かつては完全にご法度だった“い”抜き言葉ですら普通に使われるようになってしまった。本人が“してる”と話していても、“している”と表記するのが本来の正しい形だった。さすがに、“ら”抜き言葉は今でも多くのケースで直されているけれどね。

一方、ネット民の間では、保守的思想なのか、明治から昭和20年くらいまでの時代に対する思い入れなのか知らないが、やたらと漢字を使いたがるのが多いので(それって、あなたたちの嫌中思想と矛盾しているよねって言いたくなるが)、助動詞的使い方の場合でも無き・無し・無いを使っている人が多い。食べ無いとか、行か無いとかね。おかしいよね。

でも、言葉というのは時代とともに変わっていくものだから仕方ない面もあるのだろうとは思う。その時代の大多数がよく使う表記の方が目につくってのはあるのかな。テレビのニュース番組が形容詞扱いだろうと、助動詞扱いだろうと、無き・無し・無いという表記を使っていなかった90年代のミスチルのヒット曲「名もなき詩」はひらがな表記だけれど、本作の原作が発表された2010年代はネット時代になって久しいので、漢字表記の方が市民権を得ているってことなんだろうね。そう考えると、いまだに否定されている“ら”抜き言葉ってすごいよなって思う。

それから、エンドロールという和製英語も個人的には気になるかな。英語圏文化にかぶれた時期がある人間としては…。

正しい英語では、エンドクレジット(正確には複数形のクレジッツ)だからね。まぁ、下から上へ巻き上げられる形でクレジットが表示されるから巻くを英語にしたロールという言い方にもなったのかな。

あるいは、かつてのフィルム上映では映画は複数の巻(英語ではロール)にわかれていて、エンドクレジットは最終巻に含まれるているから、そういう呼び方になったのかもしれないが。まぁ、日本の映画やテレビなど映像業界で使われている英語には和製英語が多いよね。

映画にも原作にも直接関係ない話はこのくらいにしたいと思う。

とりあえず、本作に関する否定的な意見が多いのは納得だと思う。

不幸な環境に育った小学生の時からの女1・男2の仲良し3人組の話なのに、大人になってからは全然、その女が出てこない。しかも、男のうちの1人が人気モデルにプロポーズする話が延々と繰り広げられている。そりゃ、不自然すぎるよね。

“ラスト20分の真実”なんてキャッチフレーズで宣伝していたが、こういう宣伝の仕方、いい加減やめればいいのにって思う。それでハードルが上げられてしまうから、余程のどんでん返しでもない限りは、酷評されるに決まっているんだからね。

そう考えると、本当、「シックス・センス」って、演出・脚本・撮影・編集・演技がいかに優れていたかってのが分かるな。

少なくとも、衝撃的なラストをうたっているんだったら、人気モデルの正体が実は仲良し3人組の紅一点で、自分たちを見捨ててセレブになったことを妬んだ男2人が復讐するみたいな話にしたらどうなんだって思うけれどね。まぁ、そんなオチだったら、もっと酷評するけれどね。

それから、説明不足な点も多すぎ。紅一点の髪の色は生まれつき?ハーフなの?人種差別的な理由で小学生時代にいじめられていたの?そして、高校生時代になると、染めた髪の色が落ちたみたいな髪の色になっていたけれど、その理由は?

そして、原作を読んでいないので、そちらでもそうなっているのかどうかは知らないが、言葉を知らない連中が書いたセリフに思える箇所がいくつかあった。

いじめを助長する体罰女教師が転校してきた紅一点に対して、“自分で自己紹介して”とか言っていたが、自己紹介は自分でするものに決まっているだろ!

それとも、そんな言葉遣いをするほど能力がない教師ということを分からせるために、わざとそういうセリフを言わせたのだろうか?

まぁ、共感できる点もあるんだよね。仲良し3人組の中でカップルができてしまう問題は多くの人の共感を呼ぶ題材だから、コレを活かせば良かったのにって思う。

本作のスクールカースト下層トリオに限らず、女1・男2の3人組って、どうしてもうまくいかないんだよね。まぁ、同性同士でも3人組ってのは1人余るようになってしまうけれど、男女混合、特に女1・男2の組み合わせってのは、男のうちの1人が除け者になってしまう。その原因は恋愛感情が起こるから。

こういう言い方をすると、森の失言みたいになってしまうかもしれないが、男は複数の女性を同時期に妊娠させることができるが、女性は同時に複数の男との間の子どもを妊娠することはできない。これが大きいと思うんだよね。だから、恋愛関係からはじかれた男は3人組でいると居場所がなくなってしまう。他の2人は自分がいない時も一緒にいるし、しかも、キスしたりセックスしたりしているって思ったら、そりゃ、何で自分はここにいるんだって思うよね。ましてや、その紅一点に恋愛感情を抱いている(or抱いていた)となれば尚更。

本作は、仲良し3人組の中でカップルが誕生し、1人が余ったって話なんだから、もっと、そっちを膨らませた方が良い話になったのになとは思う。なのに、自分のかわりに彼女と付き合うことになった男と一緒に、自分をふった女のための復讐劇に協力するなんてありえないでしょ。

本作の関係者は女1・男2の組み合わせで余りものになってしまった者の辛さを描いた秋元康作詞によるHKT48の「3-2」でも聞いて三角関係について学び直して欲しいと思う。

そういえば、邦楽でも洋楽でも、女1・男2の組み合わせの音楽グループって、気付くと男女デュオになっていることが多いよね。

ドリカムのように薬物問題でメンバーが抜けて2人組になったケースもあるけれど、多くは恋愛感情が影響しているんじゃないかなって思う。

それにしても、本作の終わり方、クソだな!

テレビシリーズが中途半端な所で、あるいは、新たな展開が始まる所で終わり、続きは映画でというパターンはよくあり、かつてはそういうことをすると炎上していたが、最近では「劇場版 鬼滅の刃」のように受け入れられるケースが目立っている。

そのかわりと言ってはなんだが、最近、炎上しやすいのは、テレビシリーズを中途半端な所で終わらせておいて、“真のエンディングは、Huluで!”とか、説明不足な最終回を放送しておいて、“話の流れがきちんと分かるノーカット版はHuluで!”という、日テレのドラマがよくやる“Hulu商法”だ。

局がやっている配信サービスの有料契約を促すために、先行配信したり、配信版に地上波版になかったシーンを加えるといったようなことはどこの局も多かれ少なかれやっているが、一番悪質なのが日テレで、最終回が終わった直後に“真のエンディングはHuluで!”なんてやるから、他局のものも含めた配信誘導商法が“Hulu商法”と叩かれてしまうんだよね。

そして、本作は“映画の続きはdTV”でという新たな商法を取っていた。百歩譲って、無料の地上波放送から有料の配信サービスへ誘導するのは理解できるが、映画館で金を払って鑑賞した人に途中までしか見せず、続きは有料の配信サービスと契約してから見ろってのは酷すぎるでしょ!

そんな映画の公開の仕方は許せないので、最後に一言叫ばせてもらいたい。

本当、酷すぎるクソ映画だ!

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