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「人の気持ちがわからない」という悩みについて(前半)

「人の気持ちがわからない」という悩み

社会人になって子どもと関わる仕事についてからというもの、「人の気持ちをどう汲み取ればいいんだろうか…?」ということについてよく考えています。というかこのことについて考えていたのは大学生の頃から、いやもっと言えば高校生・中学生、小学生の頃まで遡るかもしれない。
知らぬ間に話し相手を怒らせていたり、目の前で泣き始めた人を見て「なぜだ…」と途方に暮れていたり、なかなか本音を話してくれない人を相手にじっれたく感じたり。ともかくそういう経験に関して言えば枚挙に遑がない。
「あぁ、自分は本当に人の気持ちというのがわからないのだなぁ…」というのが長年の悩みとなっています。おそらくそう感じている人って、僕のまわりで1人や2人ではないはず(と勝手に考えています)。そこで今回は「人の気持ちがわからないという悩み」についていろいろと考えてみたいなと思います。

「人の気持ちがわからない」ということに関する2つの疑問

僕は何か疑問に感じると、ありとあらゆる仕事やタスクを脇に置いてでも「そもそも論を考えてしまう」という実に面倒な性格を有しています。ここでもそれをフルに発揮して(ということは今取り組んでいる仕事が脇に置かれていることは秘密です)そもそも論をまず考えてみましょう。
「人の気持ちがわからない」という感情を目の前にした時、そこに2つの問いかけをしてみたい。1つは「そもそもなんで"人の気持ちがわからない"ことに悩んでいるのか?」ということ。悩んでいるということは少なからずそこに「人の気持ちがわからないこと=良くないこと」という価値観が裏にあり、突き詰めると「人の気持ちがわかるようになりたい」というニーズがあるはずです(というか僕にはあります)。なので1つ目の問いかけは、言い換えるならば「なぜ"人の心がわかる"ようになりたいのか?」となりますね。
2つめは「そもそも"人の心がわかる"とは何か?」ということ。でました、Theそもそも論。まぁでもそりゃそうで、人の心がわかるという言葉の定義(ないしイメージ)は人によってばらつきがあるはずで、ここをしっかり突き詰めないとなんだかぼんやりした結論でまとまってしまいます。この2つの疑問をじっくり考えていこうと思います。

なぜ人の心がわかりたいと思うのか?

今回この考察をするにあたって「何か本を読んでみよう!」と仕事を脇に追いやりながら調べてみると、ちょうどドンピシャな参考文献が見つかりました。

いやぁ、ほんとドンピシャ。基本的に僕の考察はこの本の要約に浅はかな私見と薄い知識を足したようなものなので、「木元の話は中身がない!」と思った方はこちらを是非読んでみてください。著者の山鳥重さんは失語症や記憶障害などの高次脳機能障害を専門とする脳科学者で、専門家とは思えないくらいわかりやすく「わかる」ということに関する脳のメカニズムを解説してくださっています。ありがたや。
1つ目の僕の疑問、「なぜ人の心がわかりたいと思うのか?」ですが、これってたぶん僕1人が抱える課題…ではないですよね?おこがましくも言ってしまえば、人類みなそう思っているように感じます。だって自分の家族や友人・知人、恋人や職場の同僚が「何を考えているのか、感じているのかわからない」状況って結構不気味じゃないですか?ということは、人類はみな「人の心がわかりたい」って言い切ってもいいんじゃないでしょうか(僕⇨人類とずいぶん主語を大きくしてしまいました)。では、何か人間の本質に「人の気持ちがわかりたい」というメカニズムが込められているはず。そこを紐解こうと思った時に先ほどの著書にドンピシャな一節がありました。

とある天才物理学者のご意見

はい、なんとここで物理学者の登場!ちなみにこの人は探究学舎の物理編というコンテンツでも登場したこともあり、認識論の本の中に出て来たことに知的興奮を隠しきれませんでした。彼の名はエルヴィーン・ルードルフ・ヨーゼフ・アレクサンダー・シュレーディンガー(1887~1961)。長いですね。5回ぐらい唱えて覚えましょう。彼自身は紹介通り物理学者であり、波動力学という分野を作り上げ、量子力学の発展に大いに貢献した御仁。「シュレディンガーの猫」という有名な思考実験で名前をご存知の方もいるかもしれません。
実は彼、そのものズバリ『生命とは何か』という本を記しており、物理学的な見地から生命とは何かということを考察しています。そしてその中でシュレディンガーはこのように述べている。「生命の本質はエントロピーを減少させることにある」と。
・・・・。なんのことだかさっぱりわかりませんね。「わかるとは何か」を突き詰めて来たのに急にわからないことが増えていく。これぞ矛盾ですね。エントロピーとは物理の中の熱力学の用語で、誤解を恐れず一言で言うのであれば「乱雑さ(混沌性・不規則性の度合い)」を表します(といっても僕も物理学徒ではないので正確さは担保できませんが。。)。そして熱力学にはとても重要な法則があります。それは「エントロピーは増大する」という法則です(熱力学の第二法則)。例えば、コーヒーの中にミルクを一滴入れたらどんどんミルクはカップ全体に広がりますよね。まかり間違ってもミルクがコップの1点のみに集まってコーヒーの中に拡散しないということはない。コーヒー全体に広がり均一になっていきます。あるいは、鉄の棒の片方の端をバーナーで熱したら、やがて反対側まで熱くなります。熱は一箇所に固まらず全体に拡散していきます。全体としてのエネルギーは不変だが、一箇所に溜められているエネルギーは必ず減少して均等化される、これをエントロピー増大の法則と言うそうです。
つまるところ、この法則は自然界が均一化、言うなれば無秩序へ向かう傾向を持っているということを示しています。しかし、自然界においてこの法則に逆らう例外が1つあります。そう、生命です。だって平熱36℃の僕が平均気温マイナス50℃の南極大陸に足を踏み入れても、決して僕の体温はマイナス50℃になりませんよね。エントロピーの増大に抵抗してエネルギーを補給し続けているからです。エントロピーが増大し、無秩序へ向かう自然法則に逆らってまでエントロピーを減少させて秩序を維持しようとする。シュレディンガーはここに生命体の本質を見たのです。

意味を生み出すという人間の欲求

長々とシュレディンガーの話を書いてしまいました。「秩序ある状態」とは言い換えれば「整理整頓された・分類された状態」です。生命はありとあらゆる場面で混沌・無秩序に存在している物質や情報から必要なものを選び抜いて秩序を生み出しています。空気の中から酸素を選んで呼吸したり、食べ物の中から必要な栄養を選んで摂取したり。山鳥先生曰く、これは物質的部分だけでなく心理的減少にも貫徹しているといいます。
また物理学の例えで恐縮ですが、僕らの身の回りにはたくさんの電磁波が飛び交っています。レントゲンを撮る時に使うX線や、ガラケーが主流だった時代に女の子とドキドキしながらメアドを交換する時に使った赤外線、「Wi-Fi飛んでる?」のギャグでおなじみ電波など。nm(ナノメートル)から㎞(キロメートル)の単位に至るまで、いろんな波が飛び交っています。でも不思議だと思いませんか?別にその全てが目に見えてもいいものなのに、人間に見えるのはそのごく一部、虹の七色でおなじみ赤〜紫の可視光線のみです。

でもこれは言うなれば「必要なものだけを取り出して役に立つ情報に変換する」という生命体のみができる行為とも言えます。考えてもみてください、もしこの地上にあるWi-Fiやらテレビの電波やら赤外線やらX線やらが全部見えてしまったら。ノイズが多すぎて頭パンク状態になっちゃいますね。視覚ひとつ取っても生物は必要な情報を取捨選択して、秩序ある情報を作り上げているのです。ちなみに人間含む霊長類は「赤・緑・青」の3つを選び、トリは赤・青の可視光線を捨てた代わりに紫外線を選び、ネコは赤を捨てるかわりに鋭い嗅覚を、イヌも赤を捨てて光の明暗に対する感受性を獲得したと言われています。つまりこれは視覚だけに限った話ではなく、生命の知覚全般に言えることなのです。山鳥先生の著書にも以下のような一節があります。

光はただ光として目に入るだけですが、これにヒカリという音韻を重ねることで、ただ選び出されただけの特定の電磁波から、光という意味ある現象に変換されます。ふたつの情報(視覚情報と音情報)がひとつの情報(光という意味ある心理現象)にまとめられるのです。こうして一段高い秩序が生み出されます。

取り立てて人間は何にでも「意味」を見出そうとします。それは「意味」が「わからないものをわかるようにするための働き」だからです。こと心理的な面で言うなれば、心は様々な情報やイメージからより高い秩序である意味を形成するために日々活動している。そして大事なことは、秩序を生み出すことが生命体の必須条件であるならば、秩序が生まれた瞬間、言い換えればわかった瞬間に人間は安心を感じるということです。

結局なぜ人の気持ちが分かりたいのか?

ここまでつらつら書いてきましたが、1つ目の疑問に対する結論はいたってシンプル。要するに、「人間はそもそもわかるという状態を欲している」ことなのです。いやいや、当たり前じゃないか!と思った方。その通りです、そもそも論とは「様々なプロセスを経て当たり前の結論を再度認識するために存在する」はずです。ただ、ここまでは広く「わかる」ということについて書いてきました。ここからは私見が混じりますが、これを特に「人の心」という風に対象を限定してみましょう。
人間は好むと好まざるとにかかわらずいろんな人と関わっていきています。アリストテレス的に言えば「社会的動物」です。ということは当たり前のように日常様々な人間と会い、コミュニケーションをとり、何かの意思決定を集団で行い、生活します。そこにはとかくたくさんの情報が氾濫しているはずです。喋っている相手の属性、あるいは話している内容、相手の表情やしぐさ、自分たちがいる場所などなど。今までの話を応用するのであれば、そこに秩序を見出したいというのは人間の根源的な欲求なはず。
もしも。もしも相手の気持ちや心が「わかる」ことができたら(大前提、この相手の気持ちがわかりたいというのが根源的な欲求のベースなのですが)どうなるか。相手の喋る話の内容を取捨選択する材料になるかもしれない。例えば「いま面と向かって喋っている人が何か本音を打ち明けて相談したい」と分かっているのであれば、どんな風に受け答えをしようかな?とか今喋っている前説のような話を聞くことに100%の力を注ぐ必要はないなとか、変にこちらから根掘り葉堀り突っ込む必要はないなとか、ともかくそういう明確な見通しを持てるのです。そう、コミュニケーションや関係性や意思決定に秩序を作り出せるのです。
だからこそ、「そもそも人の気持ちを人はわかりたい」という根源的欲求がある以上に、そこからまたさらに一段階上の秩序を作り出したい、という集団を形成しているが故の人間の欲求があるのではないか。そう思っています。
さてさて、2つの疑問を解消するつもりが1つ目で終わってしまった。。あんまり長いと読む気失せるので、ここまでで前半として2つ目の疑問は次に回すことにしましょう。読んでくれた方、長々とお付き合いくださりありがとうございました。

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