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祖父の遺したアルバム 福山連隊かく戦えり

今年で終戦から76年。今回は祖父の話をしよう。
祖父は、広島県福山市の福山歩兵第41連隊に所属する兵士だった。
20歳で入営し敗戦までの11年間、青春の全てを戦場に捧げた。
私が生まれるずっと前に亡くなったので、言葉を交わしたことはない。

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41連隊は、先の大戦において最も勇猛であり、最も悲運に見舞われた部隊の1つとして知られている。
1937年7月、廬溝橋事件の勃発に伴い41連隊も中国へ出発した。
福山駅は手に手に日の丸の小旗を持った見送り客で大混雑であったと言う。

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祖父のアルバムより、昭和12年7月「いざ出陣」中国戦線へ赴く41連隊。

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41連隊は北京に到着後、直ちに北上し万里の長城を目指した。万里の長城は既に東條英機が率いる通称「東條兵団」が攻略に当たっていたが、守りやすく攻めにくい地形に大苦戦を強いられていた。
そこへ援軍として駆け付け、中国国民党軍の要塞を次々と陥落させた。

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杭州湾上陸作戦に続いて蘇州、広東省も攻略。破竹の進撃の末、帰国の途についた。

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福山市民は41連隊の活躍を提灯行列で祝った。

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1941年12月8日、真珠湾攻撃と同時にマレー半島上陸作戦が行われた。
祖父ら41連隊は2月にシンガポールを攻略し、フィリピン・パナイ島に続いてミンダナオ島を占領。わずか3ヶ月での快進撃だった。

そんな中、ニューギニアへの移動命令が下る。ポートモレスビー攻略作戦である。
ブナを出発した41連隊は、3000m級の山々が連なるスタンレー山脈を越えるという、過酷な戦いを強いられることとなった。オーストラリア軍の抵抗も激しく、補給が途絶え事実上壊滅してしまう。

その後、一時復員した41連隊は第5師団から第30師団「豹兵団」に所属を変え、フィリピン・ミンダナオ島防衛の任に就いた。

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敗色濃厚となっていた昭和19年、マッカーサー率いる20万の大軍がフィリピン・レイテ島へ押し寄せた。

41連隊もミンダナオ島からレイテ島へ駆けつけ、マッカーサーを迎え撃つ。
まさに身を挺して太平洋の防波堤とならんと、圧倒的な火力と物量を誇るアメリカ第10軍団を相手に勇戦敢闘。
2日間の足止めに成功したが、防衛線を突破されてしまう。

生き残った将兵はカンキポッド山(フィリピン・タクロバン市)に集結。
希望を捨てずに戦い抜こうと、この山を「歓喜峰(かんきほう)」と名付け粘り強く抵抗を続けた。
しかし矢弾尽き水枯れ、遂にその時が訪れる。
41連隊は最後の突撃を敢行し玉砕。終戦までわずか1か月での出来事だった。
生存者は十人ほどだったと言う。

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祖父は3冊のアルバムを遺した。戦友を大切にした祖父は「炊事の神様 渡辺虎一」「連隊の名物男 小山」「軍旗祭の人気者 西藤芳男」など、写真にキャプションを添えている。1人1人の兵士に名前があり、家族があり、そして未来があったことが祖父の几帳面な字から伝わってくる。

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どんなに生きて日本に帰りたかったことだろう。
青い空で、南の海で、大陸の荒野で、名前も知らない島のジャングルで、
日本のため、家族のため、そして後世の私たちのため、全てを投げ出さざるを得なかった祖父の世代の皆様に「よく戦って下さいました。本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。」と心から感謝し手を合わせる。

緊張が高まりつつある今、祖父たちが命をかけて守ろうとした美しい日本を、どうすれば守ることができるだろうか。
心から平和を祈念しつつ、祖父のアルバムを閉じた。

*祖父の戦友の皆さんの写真とお名前は、ブログの趣旨を福山市遺族会(篠原彌之会長)にご賛同頂き、掲載した。

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