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シリーズ日本アナウンサー史④初の野球実況中継 魚谷忠

名古屋放送局が初の式典中継を行い、東京放送局がそれに続き松田義郎による名アナウンスで注目されていた。
そんな中、大阪放送局は式典中継とは別の新しい企画に総力を挙げて取り組んでいた。野球の実況中継である。
1927年甲子園球場で「第13回全国中等学校優勝大会(現在の全国高校野球選手権大会)」が行われた。
「今投手が投げます。ソラ打ちました。アッ、フライです。中堅が走っています!」
日本初の野球実況を担当したのは、大阪放送局の新人アナウンサー魚谷忠だった。原稿を持たない実況アナウンス、即ちアナウンサーの「瞬間芸術」がここに誕生する。

魚谷は第2回大会の準優勝校、大阪・市岡中学校(現市岡高校)のサードで、関西学院への進学後も野球部で活動した。野球経験を買われての大抜擢である。
関学卒業後、銀行へ入った魚谷だったが大阪放送局のアナウンサー募集広告を見て応募を決意。勤務先銀行の支店長が喜んで保証人になり、新たな世界へ踏み出す若者を温かく送り出した。

大阪出身の魚谷アナウンサーは、共通語を話せるようになるために随分苦労した。「取りあえず新聞の切り抜きを音読したり、野球を観戦しては口の中でもぐもぐ練習した」 と苦労の準備を後に振り返っている。
本場アメリカで野球放送を聞いてきた朝日新聞の木村亮次郎記者から話を聞くなど、野球用語や放送の形式についての研究も怠らなかった。

そしていよいよ8月13日土曜日午前9時5分、日本初の野球実況中継の日を迎える。札幌一中(現札幌南)対青森師範の試合。この試合は延長12回の末、札幌一中が勝利を収めた。4日目から声がかすれて喉が痛み始めた魚谷は、試合の合間に吸入器を使いながら、8日間21試合の実況を1人でやってのけた。

魚谷のアナウンスは早口だったらしい。
これは大阪弁アクセントをできるだけ隠したいがためにそのようになったと言われているが、スポーツアナウンサーとしての1つの武器であったとも言える。
さらに「ソラ、ボールツウ。ソラ、飛びました、三塁へ」 など間投詞を効果的に使った。大阪弁のアクセントが出るのを防ぎたいという潜在的な意識の現われか、体言止めも多用した。
短い言葉と体言止め。
「さぁ!そら!」など日常あまり使うことのない間投詞。
さらに助詞を省略するなど、まさに現在のスポーツ実況の原型を魚谷が作ったと言える。

さらに魚谷は、写実的な描写と分かりやすい表現を心がけた。
中学2年~3年生のリスナーを対象に、野球に明るくない人にもよく分かるよう英語と日本語を混ぜて放送した。例えば「セカンドゴロ」なら「二塁ゴロ」とすぐに言い換える。「打ちましたレフトフライ」と言って「左翼へのフライ」と言い直すようにしたのである。くどく感じられる人もいるかもしれないが、この方が多くの人にとって分かりやすいだろうという魚谷らしい配慮であった。

当時の放送は事前に逓信省に台本を提出し、検閲を受ける決まりだったが「筋書きの無いドラマ」がスポーツ中継の醍醐味である。
今回は、事前検閲ができない代わりに放送席の周りを逓信省の役人が取り囲み、誤った実況をしたり、特定の商品の名前を出したりしたら、直ちに放送をストップすることになった。
大変な重圧の中、手探りの放送となったが、綿密な準備と情熱をもってマイクに向かった魚谷の実況は大きな反響を呼んだ。

大阪での反響の大きさを受け、決勝戦当日は東京放送局でも特別番組が放送された。まだ同時ネット中継の技術が無かったため、試合経過の詳細を時事新報運動部の記者が解説するという内容になった。
その記者の名は河西三省。
後に昭和を代表する名アナウンサーとして放送史に名を刻むことになるのだが、それはもう少し先の話。


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