Guitar Kid's Dream
ギタリスト・鈴木賢司くんのことを知ったのは1982〜3年頃。「TVジョッキー」でチャンピオンになった天才高校生ギタリストとして、音楽雑誌にも取り上げられるちょっとした有名人だった。同い年と知って驚いた。
この時点では、まだ音は聴けてない。TR-808を使ったトラックに合わせて、ハードなギターを弾きまくる。短髪で黒縁メガネと学生服。バディ・ホリーみたいでもあり、学生服がYMOの人民服みたいでもあり。ストラトの塗装はバキバキに剥がれていてエイドリアン・ブリューみたいだった。どんな音なんだろう?と興味津津だった。
賢司くんは1983年にその名も「Electric Guitar」というEPで華々しくデビューした。ここで初めて彼の音を聴いた。速弾きに圧倒されつつも、3曲目のスローバラードの歌もの「GUITAE KID'S DREAM」という曲が印象に残った。ギタリストを夢見る同い年の高校生には、とても刺さる歌詞だった。
3年後の1986年、坂本龍一さんの「未来派野郎」収録曲「Ballet Mécanique」には、賢司くんのギターソロが大体的にフィーチャーされていて衝撃を受けた。
僕は大学三年、TENTオーディションに合格する半年前で、まだ何者でもない時期だった。羨ましかった。焦った。
1986〜7年には、一度共通の友達を通じて東京で賢司くんと挨拶したことがある。彼は渡英直前で、ギター一本背負ってロンドンで勝負しようとしているところだった。僕はといえば、オーディションに合格したもののギタリストとしての自分には限界を感じ始めていて、自分の音楽人生の未来はまだ、はっきりとは見えなかった。
結局二転三転あって、僕はギタリストではなくシンガーとしてデビューすることになったのは皆さん御存知の通り。
渡英後、賢司くんは「Kenji Jammer」を名乗り、セッションを重ねて、ボム・ザ・ベースのメンバーとしても活動していると噂が伝わってきた。
1991年、自分がDJをしていたラジオ番組で「Winter in July」をかけた記憶がある。この曲、ギターはほとんど聴こえないけれど、ロンドンの最先端のクラブシーンを感じさせて、あの速弾きギター野郎の賢司くんが、こんな音楽にも参加しているというのが興味深かった。
1996年、僕はシングル曲をロンドンでレコーディングすることになった。プロデューサーはGOTAこと屋敷豪太さん。GOTAさんがレコーディングに賢司くんを呼んでくれて、久しぶりに再会できた。
この曲は、イントロのメロは僕が335で、間奏のソロは賢司くんが弾いている。賢司くんはヴィンテージのノーキャスターと小さなフェンダー・チャンプとワウだけを持って、ふらっとスタジオに現れた。譜面も見ずに、2〜3回つるっと弾いただけで、もうバッチリだった。その感じは、かつてトッド・ラングレンのセッションで一緒にやったアメリカのミュージシャンたちと同じ自由さで、日本のスタジオミュージシャンとは全く違うオーラがあった。
ちょっと弾かせてもらったノーキャスターは極太のネックとハムバッカー並に太いサウンドで、自分が知っているテレキャスとは全く別物だった。
1998年、賢司くんはシンプリー・レッドのメンバーになった。リーダー、ミック・ハックネルの絶大な信頼を得て、現在に至るまでずっと、世界を飛び回っている。
2018年、賢司くんデビュー35周年&渡英30周年記念で、一緒に作品を作りたい、という連絡があった。ロンドンと東京でファイルのやり取りをして、僕が作ったデモに賢司くんがギターを重ね、彼の友達がラップとドラムを入れてくれた。
だが、最後の仕上げに取り掛かる前に賢司くんはシンプリー・レッドのツアーが、僕は自分の30周年の活動が始まってしまって、作業は一度中断してしまう。そこから、5年が過ぎた。
今年5月、5年前のあの曲を仕上げよう、と賢司くんから連絡があった。彼は暇をみては少しずつ作業を進めてくれていたらしい。
僕はコロナ禍で膨大な数の曲を録音してきたので、今なら仕上げのミックスダウンもマスタリングも自力でできる自信があった。
そしてついに、この大作が完成したというわけ。アートワークの上のギターは賢司くんがかつて僕の曲でソロを弾いてくれたノーキャスター、下は僕が30年前にNYで買った1964年のストラト。
1964年生まれの二人が足掛け6年で完成させた、
12分25秒の、音のロードムービー。
*左下の「▶」で再生します
賢司くんやドラムのRoman、ラップのJakeにも売上を還元したいので、
皆様ご購入よろしくお願いします。買ってくれた方はボーナストラックで、僕が作ったリミックスが聴けます。かなりタイトでポップなバージョン。