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「自分探し」のはなし

かつて、私はなんとなく特に意味もわからず「自分探し」をしないといけないような気がしている時がありました。別に旅に出ようとは思っていませんでしたが、本当の自分と言いますか、どこかしらに今の自分とは違う自分らしい何かがあるのではないかと思わなくもなかった訳です。
今ではそんな意識も変わっておるなぁ……なんて思いを持ったので、本日はそんな自分探しのはなしをダラっとぼやいていみようと思います。

なんとなく、自分ってものを探さなきゃいけない気がしていた時期もあった訳ですが気づけばその件はすっかり忘れていました。別に自分を探さなくてもここに自分という自分が居るので良いのかなと思っている私がおりました。どこでもなく、ここに自分が居る実感がある訳です。
これ以上の本当の自分がどこかにある訳でもなく、こうでないと自分ではない訳ではなく、今ここにいる自分が自分である。全ての責任は今ここにいる自分にあると感じられた訳です。
色々な「自分探し」のニュアンスはあるのだろうけど、探さなくてもここに自分が居るじゃん的なノリと現在なっております。

「自分探し」をしようとしていた時は、本当の自分はもっと別にあるような、自分の居場所が他にもあるような気でもしていたのでしょうか、ちょっと思い出せないのですがきっと「変わりたい」と思っていたのでは無いでしょうか。
変わらないといけないような気がしていたが故に、そういう流れになっていたような気すらしています。

私の思っていた「自分探し」は自分をどの範囲で自分といのかの制限を探していたようにすら思えます。まだ見ぬ広い範囲の自分を探しに行っているようでこれが自分だという範囲を制限しようと思っていたのではないかとすら考えられます。

そして、今の自分が本当の自分であるのは間違いないのですが、かといって自分の事をわかっているかといったらそうでもないなと感じています。数値で出るものや行動として残るものに関してはわか理ますが、どういう人間かなんていうものは自分で作りだしたイメージでしか理解できていないと思っています。
色々な方向性はあると思ういますが、そうなってくるとあらゆる面で「自分を正しく知る」って事は難しい事であるし、知り得ないし、知らなくてもよいかなとも思ってきています。

自分の事なんで全てわかりきらないとすれば、自分自身に限界も無いわけで、探すもへったくれも無いなみたいなとこに落ち着いているのかもしれないですね。「自分を知らなければ」とか「探そう」とか思っていた時は何か焦りみたなものがあったような気もするが、今は割とそこに何もございません。

全てを知りえるような気持ちで自分を感じるのではなく、思ったよりもこんな所もあるなぁ……みたいな欠片をただただそれとして拾い集めていくだけでも良いかなぁと思っています。こんなとこもあるしあんなとこもあるから何だという訳でもなく、自分にはこんなとこもあるし、あんなとこもあるのである。

それが良いか悪いかはわからないし、今後また考えも変わっていくのかもしれないのですが、今はそんな事を思っているなぁと湿度の高さにぼんやりしながら考えたのでありました。



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