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20200527 いるもんはいる。あるもんはある。

私が実家にいた時の事。
ゴキブリが出て、「うわぁゴキブリだ!!」と私が驚こうものなら、母が「いるんだよゴキブリは。」としれっとした口調で言われ、そのままバシッとやっつけられたりスルーされたりしていた。

そうなのだゴキブリはいるのだ。
正直ゴキブリは、発見して良い気持ちになれるものでは無いのだが、いるもんは仕方が無い。どれだけ嫌な気持ちになろうがゴキブリの都合もあるのだろう。いる事実は捻じ曲げられない。

きっと大体の事は、あるものはあるし、ないものはないのだ。

自分の中に、自分が許せない気持ちが芽生えたとて、いくら許せなかろうとあるものはあるのだ。例えば、虫だけでなく人を嫌いになりなくないなぁと思っていても芽生えてしまった気持ちはそこにある感じがする。
ゴキブリがいる時はいるし、嫌な気持ちもある時はある。
ゴキブリは物理なので、あるなしがはっきりしているが、気持ちは無いような気にもできるが自覚したところであるものになる。
それは、スルーしてもやっつけても良いがもとから無かったことにはならないのだ。

私は35年人間をやっているが、人間のことは良くわからないまま人間として生きていると感じている。何で右手が動くのかも詳しくは説明できない。自分的にNGにしたい感情がうまれるのも人間の機能なのかもしれないが、それがどういう理由かも良くわかっていない。でも、あるという実感がある限りその人的にはあるのだ。

嫌だと思う気持ちもなぜそう思うのか、どういった出どころなのか調べればわかるのかもしれない。脳の働きとか心理とか人間の仕組みを理解すればわかる事もあるのかもしれない。対ゴキブリであればゴキブリの生態を知る事で何故嫌に思うのかがわかるかもしれない。もしかしたら本能的にゴキブリは嫌だと思っていたほうが人間として都合が良い事があるのかもしれない。

だが、それを知った後、どうするべきなのか・何が最善かは何かに基づいてジャッジするしかない。根本的には全ての事は、どうしたら良いかなんて備わっていないと考えられる。生きてて良いのかすら疑いだすのが人間である。実に大海原である。(だから良く自分探しの旅とかに出ちゃう人がいるのだろう。)何を良しとするかでルールは変わる。属している環境によって導き出されている事を信じきっていいたり、信じられるルール、宗教とか政治とかを求めたりもするのだろう。常に何かの影響でジャッジしたい気持ちがある。だが、道理的にそれが良いとしたところで根っこにある快不快はそこに紐づいているのかどうかも謎である。人間は不思議だ。

あるもんはある。
それに向き合うためにどうするかは、それぞれであり、それぞれすぎるなぁと、適当にそんな事をぼんやりごにょごにょ考えたりした日だった。

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