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20200617 「誰のものでもない」かもしれない件

私には9歳離れた兄がおり、二人兄妹である。
本日は、私が小学生くらいの頃の何とはないお話をきっかけに回想してみようと思う。

よくある話だが、私が食べようと思って大事に置いておいたプリンを知らない間に兄が食べていた事があった。まあまあよくあった。なので私は「それ私のなのに!!!」と兄に怒った。すると兄は「これはタカノ家のプリンであって、特定の個人のものではない」といった類の発言をした。私は、そのプリンを食べようと決めた時点で、そのプリンは「自分のもの」だと思い込んでいた。勝手にそう思っていたので、「取られた」と思い残念さと悔しさをぶつけてしまったが、良く考えなくても確かに私だけのものではなかった。思えばこの時に、私は所有物について考えるきっかけを貰った気すらする。

「自分のもの」という感覚は何なのだろう、基本自分の周りにあるものは不思議と自分のものだと思ってしまうような気すらある。もちろん頭では違うとわかっているが、先にその場所にいたら自分の場所のような感覚が芽生えることもある。(先輩風という風は良く吹いている現場を目撃する。)電車の席とかも先に座ったら自分のもののような気もしてくる。物とか場所とか、いてくれる人とか、時間とか空間とか、何だったら明るさとか暗さとかそんなものも「自分のもの」と思ってしまう節がある。
そして当然来るであろう未来も「自分のもの」と思っている感覚がある。

「自分のもの」という感覚は責任を持つ意味では良かったりもするし、執着に変わると困ったことにもなる。

「自分のもの」という想いは他人の「自分のもの」に食い込んでしまったときに対立する原因にもなるし、自分を縛る事もある。ただ、不思議と「自分のもの」だと確信できるパーツが集まった時の満足感というものは計り知れない。この所有欲というものは何なんだ!と思わなくもない。

無くなったら嫌だとか、奪われたら嫌だと思う気持ちは、元々「自分のもの」だと思っているからこそ発生する気持ちである。もちろん自分のお金で買ったものは「自分のもの」なのかもしれないが、それも不変的なものではない。

そう思うと全ては「自分のもの」では無いかもしれない。自分の肉体を使って、見たり感じたり聞いたりする世界は自分の世界であるのに、もしかしたら「自分のもの」ではないのかもと思ったりもする。

そんなこんなで、全ては私の世界であるが、私のものではないかもしれないなぁ……なんて考えている今日この頃であった。

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