見出し画像

幕末の京を震わせた池田屋事件! 新選組はいかにして浪士らを探し、闘ったのか

昨日に引き続き、テーマは新選組です。前回は新選組の結成から池田屋事件に至る直前までの流れをまとめた記事を紹介しました。今回はその続編として、祇園祭宵々山(ぎおんまつりよいよいやま)にあたる元治元年(1864)6月5日夜、池田屋で会合する浪士らを新選組がいかに見つけ出し、人数で劣る中、どのように闘ったのかをまとめた記事を紹介します。

旅籠が建ち並んでいた池田屋界隈

京都三条小橋西の池田屋。現在は多くの飲食店が立ち並ぶ京都市内でも最も賑やかな一角ですが、幕末の頃は三条大橋東から三条小橋西にかけて、三条道(三条通)は両脇にびっしりと旅籠(はたご)が建ち並んでいました。東海道五十三次は江戸の日本橋を起点とするならば、終点が京都の三条大橋になりますから、旅籠が並ぶのも当然でしょう。その中でも池田屋は、近所にある長州藩京都屋敷とのつながりが深く、屋敷の堅苦しさを嫌って、池田屋に逗留(とうりゅう)する長州藩士もいました。

画像1

池田屋に最初に踏み込んだのは4人

それならば、新選組は最初から池田屋が浪士らの会合場所として怪しいとにらんでいたかというと、そうではありません。京都に多数潜伏している過激派浪士たちが、放火と要人殺害を企てているという噂から、局長近藤勇(こんどういさみ)率いる1隊と、副長土方歳三(ひじかたとしぞう)率いる2隊の計3隊は、潜伏が疑われる場所を探索した末、近藤が池田屋を探し当てたのです。小説や映画などでは、池田屋が怪しいとにらんで、数日前から商人に化けた新選組隊士が泊まり込み、急を知らせたと描かれますが、フィクションです。また、多くない隊士を3隊に分けていたため、近藤隊は9人。そのうち表裏の入り口を固めると、屋内に踏み込める人数は近藤含め僅か4人でした。映画などではよくドヤドヤと10人近くが斬り込みますが、これもフィクションなのです。

画像2

では近藤勇をはじめ、沖田総司(おきたそうじ)永倉新八(ながくらしんぱち)藤堂平助(とうどうへいすけ)の一騎当千の4人はいかに闘ったのか。和樂webの記事「集合場所は?メンバーは?これはサスペンス! 新選組『池田屋事件』を徹底追跡」をぜひお読みください。

歴史に善悪はない

記事はいかがでしたでしょうか。集まっていた浪士たちの数も、誰が新選組に討たれたのかも諸説あり、正確なところがわかっていないのは意外かもしれません。また小説などでは、長州藩士の吉田稔麿(よしだとしまろ)が長州屋敷に戻って槍を持ち出し、制止を振り切って池田屋に戻ったであるとか、肥後藩士の宮部鼎蔵(みやべていぞう)は自刃したと描かれますが、それらを裏づける史料はないようです。

ところで池田屋事件は新選組の活躍のハイライトシーンですから、映画やドラマで浪士らをバッタバッタと斬っていくのも演出上必要なのかもしれませんが、私はいささか違和感を覚えます。浪士らも日本の危機に命を投げ出して、奔走(ほんそう)していた人たちでした。確かにやろうとしていたことは過激でしたが、それを一方的に時代劇の悪役として扱った演出でいいのでしょうか。もちろん同じことは、かつて新選組を悪役として描いた映画にもいえることです。時代劇の基本は勧善懲悪かもしれませんが、歴史に善悪はありません。そうしたことを映画に求めるのは野暮といわれそうですが、歴史に関心を持つ人が増えている昨今だからこそ、これからは作り手の見識も求められるのではないかと思うのです。





いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。