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小弓公方足利義明の御所とは!? 千葉市の北小弓城


あしかがヨシアキ」という人物をご存じでしょうか?

一昨年の大河ドラマりんがくる』をご覧になっていた人であれば、むろまち幕府最後の将軍である足利よしあきをすぐに思い浮かべるかもしれません。『麒麟がくる』では、たきとうけんいちさんが義昭を演じていました。

しかし、足利ヨシアキはもう一人存在します。戦国時代の関東でゆみぼうを称して公方に対抗し、第一次国府こうのだい合戦に散った足利よしあきです。

今回はその足利義明が居城とした、千葉県千葉市のきたゆみ城(生実おゆみ城)跡を紹介します。

北小弓城と南小弓城

先日、千葉市の北小弓城跡に出かけてきました。生実城とも呼ばれ、江戸時代には生実おゆみはんもりかわ家の生実じんが置かれた場所でもあります。北小弓城と呼ばれるのは、すぐ近く(南東約1.3km)にみなみゆみが存在するからでした。従来、小弓公方が居城としたのは南小弓城とされてきましたが、最近は北小弓城だったとする見方が有力となっています。

北小弓城への鉄道の最寄り駅は、けいせいはら線の「学園前駅」。東京方面から京成線で向かう際は、京成ぬま駅で京成本線から京成千原線に乗り換えます。でらを過ぎると、車窓から見える風景が起伏に富み始め、こちら方面にかんのない私は驚きました。千葉市というと平坦な低地のイメージを漠然と抱いていたからです。実際、千葉市は、うちぼうと呼ばれる東京湾沿岸部の西側は低地ですが、東側にはしもうさ台地と呼ばれる台地やが広がっています。京成津田沼駅から南下してきた京成千原線は、千葉寺駅を過ぎると東側へと大きくカーブし、中世の城を築くのに向いていそうな高低差の多い地形の中を再び南下していきます。

千葉寺駅、学園前駅と北小弓城の位置関係(国土地理院地図に加工)

しもうさのくに(現、千葉県北部、茨城県西部)は平安時代よりばんどうはちへいの一つ、千葉氏が支配しました。現在、放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも、有力御家人として千葉つねたねが登場しています。しかし室町時代のきょうとくの乱の際、一族内で争いが起こり、勢力が弱体化しました。代わって力をつけたのが筆頭重臣のはらで、その居城が上総かずさのくに(現、千葉県中部)との国境に近い北小弓城でした。

従来の説では、原氏の居城は南小弓城で、敵方に落とされて小弓公方足利義明の居城となった後、再び原氏が奪還。しかしその後は南小弓城を居城にせず、新たに北方に北小弓城を築いて生実城と称した、と語られてきました。小弓城が南北に二つ存在するのは、そうした理由である、と。しかし近年、南小弓城が機能していたのと同時期に、すでに北小弓城も存在していたことが明らかとなり、従来の説はくつがえりました。そして原氏が居城とし、また小弓公方が御所を置いた城は、南小弓城ではなく、北小弓城であったとする説が、現在では有力視されているのです。

大手口跡と生実神社

学園前駅から交通量の多い県道66号を西に約1km進むと、北側歩道脇に「北小弓城おおぐち跡」の石碑が建ちます。ここから西に、かつて北小弓城が広がっていました。

地形的には東から西に突き出たぜつじょう台地の先端にあたり、先にいくにつれてはばひろとなる地形のため、北小弓城のしゅかくほんまる)は台地北西端に築かれたとされます。東を向いた大手口は北からこくが入り、台地が最もくくれた部分にあたりました。碑の背後にある若干の盛り土は、かつての土塁跡でしょう。なお地形図等では、碑の南側に堀がコの字に屈曲して「ますがた(桝形は城の入口などを守るための四角形の空間。出桝形は外側に飛び出したかたちの桝形)」を形成していたようですが、現状ではよくわかりません。

左:大手口跡碑、右:碑の背後にある土塁跡

大手口から少し西に進むと、生実神社です。城主の原氏がかんじょうした古社で、境内は北小弓城のくるの一つでした。境内の本殿の西側に、深いからぼり跡が明確に残っています。ここが北小弓城跡の中で、最も城らしさを感じることのできる場所かもしれません。空堀の西側には、るい跡と思われる高まりも確認できます。

左:生実神社境内の空堀跡、右:住宅の奥に見える土塁跡

生実神社の西隣の曲輪が、江戸時代に生実藩陣屋の殿てんなどがあった場所でした。陣屋とは3万石以下の大名が、城の代わりに設けた政庁と住居を兼ねたもののことです。生実藩森川家は1万石。北小弓城跡を陣屋とし、明治まで続きました。江戸時代の陣屋の図を見ると、大手にあたる正門は南側にあり、その一帯には町家が広がっていました。しかし陣屋跡は(もちろん北小弓城跡も含めて)ほぼ宅地化され、歩道に建つ「森川氏じょうの碑と、城域の西端を占める森川氏のだいちょうしゅんいんのみが、生実藩陣屋の跡を伝えています。

森川陣屋絵図
左:森川氏城址碑、右:重俊院の森川家累代廟

主郭は城内の低い位置に築かれていた?

重俊院の西側には、北に、南に生実池が広がります。かつては現在よりも広範囲に池が広がり、北小弓城の天然の堀となっていました。つまり、この付近が城域の西端ということになります。一方、重俊院の東側に、北小弓城の主郭がありました。現在、ほんじょう公園」という何の変哲もない空き地のような公園になっています。小弓公方足利義明の御所も、この付近にあったはずです。

左:生実池越しに柏崎砦を望む、右:本城公園

少々気になったのは、東端の大手口から西端の池にかけてゆるい下り坂になっており、台地の北西端に位置する主郭が、大手口よりも標高が低くなっている点です。具体的には大手口の標高が約20.8mであるのに対し、本城公園は約12.4mです。当時は盛り土をしてもっと高くなっていたのか、それとも多少標高が下がっても、池や湿地に囲まれて最も守りが固いと考えられたのか……。常識的には、もし大手方面を破られると、主郭を守りづらくなるように感じられます。江戸時代の生実陣屋が主郭跡ではなく、生実神社に隣接する曲輪に置かれたのも、あるいはこの辺に理由があったのかもしれません。なお北小弓城は、東西約550m南北約650mの規模でした。

小弓公方足利義明とは

さて北小弓城に御所を置き、小弓公方と呼ばれた足利義明について紹介しておきましょう。

室町時代、京都の室町将軍より関東10ヵ国の統治を任されたのが鎌倉府の鎌倉公方で、初代将軍足利たかうじの4男、もとうじの子孫がしゅうしました。また鎌倉公方の補佐役であるかんとうかんれいを、代々うえすぎが務めます。ところが次第に鎌倉公方と関東管領が対立するようになり、5代鎌倉公方の足利しげうじは上杉氏と決裂、関東の武士団を巻き込んだ大乱がぼっぱつします。30年近くにも及ぶ、享徳の乱でした。この時、成氏は拠点を鎌倉から下総古河に移し、古河公方と呼ばれることになります。

その後、古河公方と上杉氏はぼくしますが、今度は2代古河公方足利まさうじと息子たかもとが争い始めます。この政氏の次男、高基の弟が義明でした。出家していた義明はげんぞくすると、兄とともに父を追い、次いで兄と対立します。

足利義明像(部分、『成田参詣記巻一』より)

この義明に目をつけたのが、上総のやつたけでした。真里谷じょかんは古河公方を支持する千葉氏と対抗すべく、えいしょう14年(1517)に千葉氏重臣原氏の北小弓城を攻略すると、足利義明をようして御所を置き、新たに「小弓公方」が誕生するのです。恕鑑のねらいは当たり、(現、千葉県南部)のさとはじめ、古河公方派ではない多くの勢力が小弓公方のもとに参集、真里谷武田氏も大いに勢力を伸ばしました。義明は20年余り、小弓公方として下総に君臨し、戦国史に名を留めるのです。それから第一次国府台合戦に至るまでの経緯は、次回の南小弓城の記事で、改めてご紹介したいと思います。

北小弓城の北方を守る「柏崎砦」

さて、最後に北小弓城の周辺にあったとりでを紹介しましょう。主な砦として城の北にかしわざき砦」、南にながやま砦」がありましたが、長山砦は次回に回し、今回は柏崎砦を取り上げます。

北小弓城の西側に広がる池からおよそ100m西、北から台地が突き出しています。主郭からは、およそ300m。その台地上に柏崎砦がありました。現在は学校施設となっており、遺構らしきものは確認できませんが、先端部分に砦の施設があったと考えられています。北小弓城の至近距離にありますので、北方の警戒、及び城の防御拠点の一つとして機能したのでしょう。

柏崎砦と北小弓城の位置関係写真(国土地理院地図に加工)
左:柏崎砦跡、右:砦跡の台地上

以下、次回の「南小弓城」に続きます。



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