見出し画像

【どうする家康】鳥居強右衛門の血の熱さが、長篠合戦のゆくえを変えた


かわのくに長篠ながしの (現、愛知県新城市)。戦国時代に織田おだのぶながとくがわいえやすの連合軍が、たけかつより軍に歴史的勝利を収めた長篠の戦いの舞台として知られます。

大河ドラマ『どうする家康』でも描かれますが、この長篠の戦いのゆくえを、一人の無名の男が変えていたことをご存じでしょうか。

現在、長篠古戦場の近くをJR飯田線が走っています。長篠城駅の隣の駅の名はとり鳥居すね右衛もんという人物に由来しています。この鳥居強右衛門こそが、実は長篠の戦いのゆくえを変えた男でした。今回は長篠城攻防戦において窮地に立たされた城将・おくだいらのぶまさと、家臣・強右衛門の局面を変えた決断を描いた記事を紹介します。

画像1


風前の灯の長篠城

てんしょう3年(1575)5月14日、長篠城内は重苦しい空気に包まれていました。武田勝頼率いる2万の軍勢が城を囲んで攻撃を始めてから、すでに半月。これに対し、長篠城を守る奥平信昌は僅か300の兵で辛くもしのぎつつ、主君である徳川家康に援軍を要請していました。しかし援軍が来る様子はなく、昨日は曲輪くるわの一角が敵に奪われ、負傷者の増加も深刻です。「援軍が来ないのであれば、これ以上、戦い続けることはできない」。そんな空気が城内を支配していました。

画像2
長篠城跡

実は、援軍要請を受けたおかざき城の徳川家康はすぐに向かうつもりでいたものの、武田勢が2万の大軍であることを知り、単独では返り討ちに遭いかねないと判断。同盟する織田信長の来援を待っていたのです。しかし、そんな事情を長篠城の将兵が知るはずもなく、城将の奥平信昌は、自らの首と引き換えに降伏開城して、城兵の助命を請うことも覚悟せざるを得ないところにまで追いつめられていました。


強右衛門

それでも信昌は、家康が援軍を寄越さないとは信じられず「使者として城から抜け出し、岡崎城に行って、援軍の有無を確認してくる者はいないか」と家臣に問います。もちろん武田軍の厳重な包囲を突破することは容易でなく、生還が困難な任務でした。家臣らが沈黙する中、一人進み出たのが、軽輩の鳥居強右衛門です。普段は目立たない人物でした。

強右衛門のことを記すあんしんちょうおおただたか『三河物語』などには、彼がなぜ志願したのか、主君の奥平信昌をどう思っていたのかは記されていません。しかし、軽輩の強右衛門が漠然とした忠誠心だけで危険な任務に臨んだとは思えず、わずかながらも信昌との交流があったのではと、記事中では想像してみました。

画像3
長篠城近くの河原

14日の深夜、信昌の手紙も預かった強右衛門は、ひそかに城の西側を流れる寒狭(かんさ)川に身を沈めます。川岸には城から抜け出す者を見張るため、複数の武田のしょうが立ち、また川の中にもいくつもの綱や網が張られていて、それに触れればなるが鳴る仕掛けになっていました。強右衛門は川底を慎重に進み、危うい目に遭いながらもなんとか切り抜け、夜明け頃にはカンボウ峠から「脱出成功」の合図である狼煙のろしを上げています。


驚喜と暗転

強右衛門が岡崎城に到着したのは、15日の夕方でした。長篠から走りづめでのことです。長篠城を脱出してきたという使者に、家康だけでなく、援軍として岡崎城に着いたばかりの信長も大いに驚き、強右衛門の行動を称えました。一方、強右衛門は、信長が3万の軍を連れてきており、家康の軍と合わせて、武田軍の倍の軍勢が長篠城の援軍に向かうと聞いて驚喜します。

そして、このことをすぐに主君の信昌に知らせたいと言って、信長や家康の制止も聞かずに、来た道を再び長篠へと取って返しました。この時、強右衛門は36歳。頑強な身体ではあるものの、さすがに疲労がつのり、前日早朝に狼煙を上げた峠の近くまで来たところで武田兵に怪しまれ、捕縛されてしまいます

果たして囚われの身となった強右衛門に何が起こるのか。そして長篠の戦いのゆくえを変える決断とは何であったのかについては、ぜひ和樂webの記事「長篠合戦のゆくえを変えた?人間味あふれる鳥居強右衛門・命がけの決断とは?」をお読みください。


熱を帯びた衝動

人が命を投げ出しても守ろうとするものがあるとすれば、それは何でしょう。まず思い浮かぶのは「家族」かもしれません。また、家族でなくても「大切に思う人」でしょうか。少なくとも顔の思い浮かばないもののために、命を投げ出す気にはならないのではないか、そんな気がします。かつての武士にとっては「恥」「名誉」も、命よりも重い価値を持つものでした。しかし強右衛門の場合は、そうした観念とは異なるように感じます。

彼はやはり主君の信昌の思い、彼を案じてくれる仲間たちの思いといった、彼が家族と同様に大切であると感じた人々を守ろうとする、熱を帯びた衝動につき動かされたのではないでしょうか。だからこそ、時代を超えて現代の私たちの胸を打つものがあるのでしょう。また、強右衛門の熱さが長篠城を救い、それによって織田・徳川軍の歴史的勝利が生まれたとするならば、歴史は人間の思いの積み重なりの軌跡であるようにも感じます。皆さんはどのようにお感じになるでしょうか。

今回もお読み頂き、ありがとうございました。

画像4


いただいたサポートは参考資料の購入、取材費にあて、少しでも心に残る記事をお届けできるよう、努力したいと思います。