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【江戸小景】芝浦の海

ウォーター・フロント

超高層ビルが天に向かって伸びるウォーター・フロント。芝浦は再開発により目覚ましく発展してきた臨海部の街だ。
四方を運河が囲み、マンションや大企業のビル、公共施設などから構成された「新しい街」。
しかし、ここは150年前までは海だった場所。

田町付近を走る東海道線も江戸時代以前は海岸線沿いの海だった。
それよりも東の芝浦は、今は運河を有する陸地だが、江戸時代までは干潟があったところ。
芝浦という地名が示す通り、芝の入江だった。

日暮御門と干潟

1616年(元和2年)には、浜辺近くを通る東海道に「芝口門」が建てられたが、芝浦は美しい景観が広がり、海の先の房総の山々が望める景色の美しさが『一日眺めても飽きない』ことから「日暮御門」とも呼ばれたという。
門は、1710年(宝永7年)に高輪に移転したが、芝浦の景観自体が変わることはない。

江戸時代の芝浦は豊かな漁場で、海産物の恩恵を受けた場所だった。
芝浦で捕れた魚は「芝肴(しばざかな)」と呼ばれ、将軍にも献上されたという。

明治時代に作成された「大日本海岸実測図」の「東京海湾第1景」でも芝浦には干潟が広がっていたことを示しており、明治時代以降も潮干狩りや釣りなどの行楽で賑わったという。

渓斎英泉 – 江戸八景 芝浦の帰帆

芝浦の帰帆

渓斎英泉の江戸八景「芝浦の帰帆」では、積荷を積んだ江戸湾に多くの弁財船などの大型廻船が停泊し、弁財船の周りには積荷を江戸の河岸に運ぶための瀬取船が描かれている。
芝の浜からは、湾内を動く多くの大型廻船や小型廻船の様が眺められたことだろう。

少し気になるのは、実際のところ芝の浜からは富士山はどんなふうに見えたのだろうか?
ネットで東京タワーから観た富士山をみてみたが、丹沢山地の先にある富士山はもう少し小さく見える。
浮世絵の世界だから許される強調なのだろう。

芝浦よりも南の品川沖で江戸向けの積み替えが行われた理由は、品川より北の江戸湾は浅瀬が広がっており、大型船での北上には海底地形を把握していないと困難だったからだ。

「大日本海岸実測図」の「東京海湾第1景」では、北に向かって航行可能だったのは二つの細い水路だけだったことが示されている。

現代のウォーターフロントの風景

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