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【歴史小話】江戸の外食産業と蕎麦切屋

江戸の商家数

嘉永4年(1851年)の問屋再興令以降の諸問屋及び商工組合の連名簿である「諸問屋名前帳」に記載された総店舗数13,778軒あるという。
その中で、57万町人の日常生活を支えた「舂米屋」=「町の米屋」は21.2%の2,919軒に上り、「炭薪仲買」=「町の燃料屋」は26.9%の3,702軒に上る。
この、「舂米屋」と「炭薪仲買」で株仲間・諸組合に加盟する江戸の商家の58.1%を誇るとともに、江戸の町全体に店舗を行き渡らせ、57万町人の日常生活を支えるためのネットワークを張り巡らせていたそうだ。

江戸の外食産業と蕎麦切屋

上記のような諸問屋や商工組合が無い産業として外食産業があった。
その数7,000軒あまりの店が、19世紀の江戸の町にはあったそうだ。
(この数を合わせると江戸の町には2万軒以上の店が存在していたことになる。)
山室恭子氏の「大江戸商い白書」に文化7年(1810年)の「江戸町触集成」をもとに割り出した江戸の町の外食産業の軒数が、業種毎に掲載されている。
それによると、一番多いのが「煮売居酒屋」の1,808軒、「団子・汁粉等」の1,680軒、「餅菓子干菓子屋煎餅等」の1,186軒、「饂飩屋蕎麦切屋」の718軒と続いている。

蕎麦切屋の軒数

ところで、蕎麦屋の軒数については別の数字も存在するようで、青木直己氏の「幕末単身赴任 下級武士の食日記」には、紀嘉永6年(1853年)頃に書かれた「守貞謾稿(もりさだまんこう)」によれば「幕末には一町に一軒のそば屋があった」こと、「万延元年(1860)には、江戸府内に3,763店のそば屋があったとも言います」と書かれている。
ちなみに、屋台の夜鷹そば屋はこの数字には含まれていないそうだ。
このそば屋の軒数は、炭薪仲買の3,702軒を上回っており、江戸で最も多かった業種となる。
江戸の総町数は、延享年間(1744~1748)に1,678町になっていることから、炭薪仲買とそば屋は1町に2軒以上あったことになる。

ところで、「江戸町触集成」と「守貞謾稿」などに書かれた蕎麦切屋の軒数にはかなり差があるが、この差はなぜだろうか?
考えられる理由としては、
①1810年から1860年の50年間で、蕎麦切屋が大幅に増えた
②業種の分類の違いによるもの
が挙げられる。

①については、当時の幕府が外食産業を抑制しようとしてた時期にあることから、50年間で大幅に蕎麦切屋が増えたとは考えづらい。
「幕末単身赴任 下級武士の食日記」の中に、「以外なことに、そばもうどんも菓子屋が作り、後に専業の店が登場しています」という記載がある。
ちなみに、青木直己氏によると「かつて筆者が勤務していた虎屋にも、江戸時代のうどんやそばの販売記録や汁を入れた徳利が残されています」記載されている。

試しに、「団子・汁粉等」「餅菓子干菓子屋煎餅等」と「饂飩屋蕎麦切屋」を足してみると3,584軒となることから、そばを扱う店が三千軒以上あったということなのかと思われる。

蕎麦切屋のメニュー

ところで「幕末単身赴任 下級武士の食日記」には、江戸の蕎麦切屋のメニューが書かれている。
ざっと挙げてみると以下のようになる(括弧内には現代の貨幣価値への換算値を記す。毎回悩むがここでは1文=30円とした)。

そば(かけ、もり) 16文(480円)
あんかけうどん 16文(480円)
あられ 24文(720円)
天ぷら 32文(960円)
花まき 24文(720円)
しっぽば 24文(720円)
玉子とじ 32文(960円)
天ぷらそば 64文(1,920円)
五目そば 100文(3,000円)
そば御膳 80文(2,400円)
上酒一合 40文(1,200円)

上記以外にも、あなご鍋やどじょう鍋を出す店もあったそうだ。
蕎麦切屋のメニューはバラエティに富んでいたようだ。
江戸の庶民や下級武士が気軽に入れる店だったのだろう。

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