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#35 清見関と興津宿


清見潟

静岡市清水区の興津から袖師にかけては、穏やかな波が海岸線の岩礁を洗う清見潟と呼ばれる景勝地があった。
かなたに見える三保松原と日本平が織りなす景観は、『万葉集』以降多くの歌人に歌われ、愛された場所だ。
飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけての貴族で歌人の田口益人(たぐちのますひと)は上野国への赴任の途中、浄見埼で、
「廬原(いほはら)の浄見の崎の三保の浦の寛(ゆた)けき見つつもの思ひもなし」
「昼見れど 飽かぬ田子の浦 おほきみの 命かしこみ 夜見つるかも」
という2首の歌を詠んでいる。

明治中期から昭和戦前期にかけて西園寺公望ら著名人の別荘が建てられ、良好な別荘地が形成されていたそうだ。
しかし、1960年(昭和35年)、清水港整備拡充の一環として沿岸は埋め立てられ、辺りはコンクリートの埠頭、コンテナ基地となり人工海岸となった。
静岡新聞の「興津と戦争(戦後)」の「清見潟埋め立て」には、「清見潟が消えると、立ち並んでいた別荘はなくなり、訪れる人はまばらになった。軒を連ねていた商店も次々と閉じた。」と書かれている。

清見関と清見寺

清見関(きよみがせき)は、駿河国庵原郡(現在の静岡市清水区興津)にあった関所の名称で、天武天皇の御世(673年 - 686年)に東北の蝦夷に備えて設置されたと伝えられている。

関所があった場所は清見潟へ山が突き出た所にあり、山が海岸に迫っているため、東国の敵から大和朝廷を守るうえで格好の場所であったと考えられている。
清見寺の創建は、その関所の傍らに関所の鎮護として仏堂が建立されたのが始めと伝えられている。

徳川家康は、今川氏の人質として駿府に在った幼少時、当時の清見寺住職太原和尚より教育を受けている。
また、後年大御所として駿府に隠棲した際には、当時の住職大輝和尚に帰依し、再三に渉って清見寺に来遊したそうだ。

興津宿

日本橋から数えて17番目の宿場町である興津宿は、1601年(慶長6年)、東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に伝馬宿として指定された宿場だ。
興津は甲斐国の身延、甲府へ通ずる甲州往還(身延街道)が分岐する交通の要衝でもあり、参詣の道、塩の道として機能した。

宿場は、由比宿からは2里12町(9.2km)、江尻宿までは1里2町(4.1km)の距離にあり、日本橋からは40里33町45間(160.8km)の距離にあった。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、宿場の総戸数は316軒、人口は1,668人(男809人、女859人)あり、本陣2軒(東本陣市川家、西本陣手塚家)、脇本陣2軒、旅籠34軒(大5、中18、小11)、問屋場1軒があったと記録されている。
宿場の町並み長さは、約10町55間(1.19km)のこじんまりとした宿場だったそうだ。

江戸時代には、清見潟の風光明媚な風景を眼下に見ることができたことから朝鮮通信使の宿泊場所とされたそうだ。

興津川の渡し

興津宿の東を流れる興津川は通常は徒渡りで、冬季のみ橋渡しだったそうだ。
歌川広重の東海道五拾三次の「奥津 興津川」には、興津川を駕籠に乗って渡る力士と、馬に乗る力士の旅姿がユーモラスに描かれている。
力士を乗せた馬や駕籠かきはさぞ重かったことだろう。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1309902)を加工して作成


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