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#36 清水湊と江尻宿

現在の静岡市清水区の中心部の江尻は古来から交通の要衝だった地域で、戦国時代には今川氏や武田氏も重要視したところだ。


江尻津と江尻城

天然の良港としての条件をそなえた折戸湾には、海上交通の要地として古代から湊が開かれていたそうだ。
江尻津は、静岡市清水区の市街地を流れる巴川の河口東岸にあった湊。
平安時代には、巴川の対岸にあった国府の外港「入江浦」への渡場として機能したと考えられている。

鎌倉時代後期以降になると、入江浦に替わって江尻津が巴川河口部の湊として隆盛となり、東海道の宿駅としても機能するようになったそうだ。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての守護大名今川範国の書状によれば、江尻津からは、駿河国内にある鎌倉円覚寺の荘園の年貢が積み出されていたそうで、今川氏の支配下にあって次第に水陸の交通の要衝としての地位を高めていった。

一方、江尻城は1568年(永禄11年)末、武田氏による今川領国・駿河への侵攻が開始された際に築城された城であり、武田家家臣の馬場信春により縄張りが行われたと言われている。
江尻城は武田氏の駿河経営の拠点となり、初代の城代は山県昌景が勤めたが、1575年(天正3年)の長篠の戦いにおいて昌景が戦死して以降は甲斐南部の河内地方の領主穴山信君(梅雪)が勤め、家臣を江尻城へ呼び集めて城を大改築して高層の楼閣を建て江尻を城下とする本格的な城としたそうだ。

その後の穴山武田氏の断絶、家康の関東移封、関ヶ原合戦後の大名配置換えを経て、1601年(慶長8年)頃、江尻城は廃城とされたようだ。

清水湊

清水湊は巴川の河口部に位置した湊で、巴川の河口が土砂の堆積によって南進したことなどから、清水湊が江尻津に替わって発展したものと考えられている。
「清水湊」と表記された史料は、永禄3年(1560)3月の今川義元判物が初出だそうだ。
江戸時代の清水湊は江戸へ物資を運ぶ重要な湊となり、甲州年貢米の輸送や西国の中継も果たす役割も担ったという。
幕府から問屋営業を許可されたいわゆる廻船問屋「諸問屋」が42軒あったそうで、諸問屋は問屋株を42に限定して商品流通を独占して仲間以外の商人が諸問屋を仲介せず取引することを厳禁した。
しかし、江戸時代後期になると諸問屋を通さずにじかに取引したり、仲間内でも違反者が出てくるようになったそうだ。

江尻宿

日本橋から数えて18番目の宿場町である江尻宿は駿河湾に注ぐ巴川の河口付近に発達した宿場町で、1601年(慶長6年)、東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に伝馬宿として指定された宿場だ。

宿場は、興津宿からは1里2町(4.1km)、府中宿までは2里25町(10.6km)の距離にあり、日本橋からは41里35町45間(164.9km)の距離にあった。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では、宿場の総戸数は1,340軒、人口は6,498人(男3,160人、女3,338人)あり、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠50軒(大 6軒、中 16軒、 小 28軒)、問屋場1軒があったと記録されている。

宿場の町並みの長さは、13町(1.42km)有り、駿河国では2番目の規模の宿場だった。
町並みは、東の辻町と本郷町の境に東木戸(現在の清水区本郷町8)があり、鍛冶町、鋳物師町と続き、傳馬町で西に折れて巴川の左岸に沿って志茂町、仲町、魚町と続き、魚町で南に折れて巴川に架かる稚児橋を渡り、入江町の端に西木戸(現在の清水区入江2丁目5)があった。
志茂町・仲町・魚町は宿場の中心部で江尻三町と称し、魚町から北へ紺屋町、南に入小路が続き、下町の南端から南へ七間町が続いていたそうだ。

江尻宿は宿場として指定されて80年間は自力で運営されたが、1681年(天和元年)になると宿場に近接する辻村、江尻村、入江村、江尻出作村、元追分村、上野原村の六か村が宿附に指定され、更に1715年(正徳5年)になると高橋村、吉川村、北矢部村、上清水村、下清水村、有東坂村などの七か村が加宿に指定されて伝馬役を負担した。

追分羊羹、豊心丹、羽衣餅が江尻宿の名物だったそうだ。

三保松原と折戸湾

名勝「三保の松原」と謡曲「羽衣」の羽衣伝説として全国的に知られる三保松原は、折戸湾を包み込むように駿河湾に張り出した三保半島の海岸線に沿って7kmにわたり5万4千本の黒松が茂った松原だ。
三保半島は、折戸湾を包み込むように駿河湾に張り出し、外洋側に高く、内湾側に低い地形を示す3つの砂嘴(さし)からなる複合砂嘴であり、内湾側から第1砂嘴・第2砂嘴・第3砂嘴に区分されているそうだ。

2013年に世界文化遺産に登録された『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』の構成要素には三保松原が組み込まれている。

歌川広重は、「東海道五十三次之内江尻 三保遠望」の題で高所から三保の松原や駿河湾を遠望する風景を描いている。
手前には清水湊の集落の屋根を描き、湊に停泊中の船や入港してくる帆船を描を描いており、清水湊が活気のある場所だったことがみえてくる。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/1309901)を加工して作成

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