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【海外の街を歩く】12年前のパリ散策(その2)

パリ旅行の二日目、ホテルを出発すると先ずはカルーゼル広場に行ってみた。広場の東には、ルーブル美術館と入口のルーヴル・ピラミッドが眼に入った。


カルーゼル広場とルーヴル・ピラミッド

カルーゼル広場(Place du Carrousel)はパリ1区にある公共の広場で、1871年まではその地にチュイルリー宮殿があった。
チュイルリー宮殿(Palais des Tuileries)は、1563年に当時の摂政であった王母カトリーヌ・ド・メディシスが建造を命じ、フィリベール・ドゥ・ロルムの設計のもと、約100年の時を費やして完成した宮殿だそうだ。
1664年には、ルイ14世の命のもとアンドレ・ル・ノートルによって泉水や散歩道などが整備された現代に残る庭園が作り上げられたが、1871年5月23日、パリ・コミューンの鎮圧の最中にコミューン側の兵士が放火し、宮殿は焼失している。

「カルーゼル(Carrousel)」とは、軍事馬場馬術の一種を意味しているそうで、広場がカルーゼル広場と呼ばれるようになったのは、ルイ14世が1662年に、その場所で馬場馬術を行わせて観覧したことに由来するそうだ。

ルーヴルの建物と凱旋門に囲まれたスペースは、いかにもパリに来たという実感が湧く場所だった。

カルーゼル凱旋門

カルーゼル凱旋門(Arc de Triomphe du Carrousel)は、ナポレオンのアウステルリッツの戦いまでの勝利を記念して1806年から1808年に掛けて建設された門であり、チュイルリー宮殿の入口としての位置づけを持っていたようだ。

門の大きさは、高さ19メートル、幅23メートル、奥行7.3メートルで、 中央のアーチの高さは6.4メートル、両脇のアーチの高さは4.3メートルで構成されている。
8本のバラ色の大理石の円柱の上には、帝国の兵士を表した像が載っている。
頂上には以前は、ヴェネチアのサン=マルコ寺院のクアドリガ(四頭立て二輪戦車)があったが後に返還され、 1828年には、フランソワ・ジョゼフ・ボジオ男爵作のブロンズ製のクアドリガに置き換えられている。

カルーゼル庭園

ルーセル庭園(Jardin du Carrousel)は19世紀後半、かつてチェルリー宮殿の中庭だった場所に初めて作られた庭園で、ルーブル美術館西端部に位置する。
西に続く広大なチュイルリー庭園(Jardin des Tuileries)とは、数段の階段を挟んで接している。ちなみに、カルーゼル庭園とチュイルリー庭園の境にあたる部分には地下いにジェネラル・ルモニエ通りが通っている。

1964-1965年に掛けては、ドゴール政権で文化相を務めたアンドレ・マルローによって、アリスティド・マイヨール作の彫像18体を設置するために再整備された。
カルーゼル凱旋門から放射状に生垣が広がっているのが特徴的な庭園だ。

チェイルリー庭園

チェイルリー庭園(Jardin des Tuileries)は、パリの中心部、ルーブル美術館とコンコルド広場の間にある庭園。
チュイルリーという名前は、かつてこの地に瓦(チュイール)を製造する工場があったことに由来しているそうだ。
パリ市内にある最古の庭園で、もともとは簡単なイタリア式庭園だったそうだが、1664年にはルイ14世の命で、ヴェルサイユ宮殿の庭園なども手掛けた造園師アンドレ・ル・ノートルによって散歩道や池などが整備され、現代に残る庭園が作り上げられたそうだ。
1667年に一般公開されたそうだが、フランス革命後には公共公園となっている。

広大な敷地を有する左右対称のフランス式庭園は、彫像も配置されていて美しかったが、人工的な印象も与える空間だった。
手入れが大変なんだろうなと、要らぬことを考えてしまった。

コンコルド広場

コンコルド広場(Place de la Concorde)は、フランス・パリ8区にある広場。
1755年、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって設計され、当初はルイ15世の騎馬像が設置されていたため「ルイ15世広場」と呼ばれていたそうだ。
その後、フランス革命の勃発により騎馬像は取り払われ、名前も「革命広場」に改められた。
1795年10月5日に勃発したヴァンデミエールの反乱において、当時ポール・バラス軍司令官副官であったナポレオン・ボナパルトが王党派を鎮圧後、現在の「コンコルド広場」という名前で呼ばれ始めるようになったそうだが公式名になったのは1830年だそうだ。

フランス革命中のコンコルド広場は処刑を行う刑場であり、1343人もの人が処刑されたそうで、ルイ16世やマリー・アントワネットがギロチン刑で処刑されたのも、この場所だった。
コンコルドとはフランス語で「調和」「協調」を意味する言葉で、多くの国民が敵対しあった過去を忘れて、和解を願う思いが込められたのだそうだ。

広場の中心部にはエジプトのルクソール神殿のオベリスクが置かれている。これはムハンマド・アリー朝エジプト国王だったムハンマド・アリーから贈られたものだそうだ。

改めて広場の歴史を調べてみると、いろいろと考えさせられる広場だ。

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