【街と街道を歩く】本町通りと日本橋通り(その3)
浅草橋から神田川沿いの柳原通りを通って筋違御門(すじかい)跡まで歩いた。
通りと簡単川の間には建物が続くので、神田川は直接見えない。
昔の風景はどんな感じだったのだろうと想像してみたが、なかなか想像できないものだ。
筋違御門跡
筋違御門は、1636年(寛永13年)、加賀藩の三代藩主前田利常が構築した江戸城三十六見附の一つ。
「筋違」の名前の由来は、二方向の道筋が見附門内で交差することから筋違御門と名付けられたという。
二方向の道筋とは、歴代将軍が江戸城大手門から神田橋門を通り、筋違門橋を渡り右に進み、下谷御成道で上野寛永寺に参詣する道筋と、中山道に向かう旅人が日本橋を起点に筋違門橋を渡り左に進み、神田明神通りの中山道に向かう道筋だ。
筋違御門と橋は1872年(明治5年)に取り壊されたため、現在は、筋違御門跡の案内板で所在が分かるのみ。
昔の名残りを感じられるものは無く残念。
昌平橋
筋違門跡の案内板からさらに歩き、昌平橋まで行き着いた。
昌平橋が最初に架設されたのは寛永年間(1624年~1644年)と伝えられている。
当初は「一口橋」や「芋洗橋」呼ばれていたが、1691年(元禄4年)、徳川綱吉が湯島聖堂を建設した際に昌平橋と命名された。
現在の橋は、1923年(大正12年)4月に架橋された橋で、RC固定充腹式アーチ橋になっている。
昌平橋から中山道を南下し始めることにした。
須田町と鍛冶町
須田町は、江戸時代より前に須田村と呼ばれていた神田川周辺の村落に由来するという。
江戸時代には道が八方から集まることから「八つ小路」と呼ばれ、神田川や日本橋川などの運河にはさまれた交通の要所になっていた。
鍛冶町は、幕府の鍛冶方棟梁・高井伊織の拝領屋敷があったことに由来するそうだ。
1603年(慶長8年)の町割の際に「鍛冶町」が誕生したとも言われている。
神田駅と今川橋
鍛治町を歩き、神田駅前を通過。土曜の夕刻、人通りはそれほど多くない。
神田駅から今川橋交差点を通過してしばらく歩くと今川橋由来碑に遭遇。
今川橋は、神田堀に架設された橋で、架橋時期は天和年間(1681~1683)との記録が残っている。
日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもあった。
神田掘は、現在の千代田区神田と中央区日本橋地域の境に流れていた堀。
当時の物流手段である舟運で大いに活躍したという。
日本橋室町
日本橋北詰の町。
街には、老舗の店舗が数多く軒を連ねる反面、ビジネス街の色も持ち合わせている。
街の名前の由来は、京都の室町にならったという説や、商家の土蔵(室)が多く立ち並んでいたため、という説があるそうだ。
室町辺りになると、大きな商業施設が並ぶ通りだけあって、人通りはかなり多い。
日本橋と河岸
日本橋は、江戸時代には五街道の起点として交通・物流の要所であった。
日本橋川には、裏河岸、西河岸、魚河岸、四日市河岸、末広河岸、鎧河岸、茅場河岸、北・南新堀河岸などの河岸が集まり、船からの人や荷物を上げ下ろしや荷揚げ品の売買で賑わったという。
現在でも道路標識における距離計算の元標になっている。
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