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【街と街道を歩く】東海道を歩く(国府津〜箱根湯本)その1

2月上旬の日曜日、東海道を国府津から箱根湯本まで歩いてみた。
国府津駅には8時39分に到着。
出発前のストレッチなどをして9時25分頃から歩き始めた。

小八幡一里塚(こやわたいちりづか)

国府津駅から歩き始めて15分程で小八幡一里塚に到着。
小八幡一里塚は江戸日本橋から19番目の一里塚で、日本橋から80kmの距離にある。
小田原宿まではあと1里の距離で、江戸を発った旅人にとっては2日目の宿まであとちょっとという位置だ。

小八幡の一里塚については天保年中の相模国風土記稿に「東海道中の東にあり、左右相対せり、高二間、舗六七間、塚上に松樹あり上は小田原宿入口一里塚、下は淘綾郡山西村小名梅沢の一里塚に続けり」とある。
塚に松が植えてあったということだが、今は道の両側とも塚はなく案内板で位置がわかるぐらいだった。

小八幡一里塚の案内板

旧川辺本陣跡

鎌倉時代、酒匂には酒匂宿があった。
川辺家は鰤漁などで財を成し宿場本陣も兼ねたといわれ、今も残る長屋門などが旧川辺本陣と云われている。
「旧川辺本陣」の建物は江戸時代後期のものだそうだ。
奥に主屋も残されていて当時の面影をよく伝えているのことだ。
長屋門と黒塀は、落ち着いた佇まいで江戸の趣きがある。
写真は撮り忘れてしまった。

酒匂川(さかわがわ)

10:30分に酒匂川に到着。
酒匂川は、小田原宿の東に流れる川だ。
江戸時代、酒匂川には橋が架けられていなかったのて、旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。

酒匂川の川渡しの石碑

川越制の実施された河川では、雨が降り続き水位が一定限度をこえると川越を禁止した。
判定基準は河川によって異なるが酒匂川の場合は、脇通りの水(約3尺5寸)で馬越禁止、首通りの水(約4尺5寸)で歩行差留となった。
東海道を上方へ向かう旅人は、酒匂川が川留めとなると、付近の農家を借りたり、野宿して川明けを待ちわびた。
河川をはさむ宿は逗留者によって繁忙となり利益を得たが、沿岸の村落は賄いを余儀なくされることも多く困窮したという。
川留は4~5日から1カ月に及ぶ場合もあり、旅行者が路銀を使い果たすこともあったようだ。
水位が下がると川越が再開され、これを川明(かわあけ)・留明といった。
川留・川明の判定は川役人の裁量によったそうだ。

現代は、橋が架かっているのですんなりを渡れるが、渡し場から川越し人足で渡った江戸時代は手間とお金が掛かって大変だったのだろうと思う。

酒匂川の右岸には、「小田原藩主大久保忠真 二宮金次郎を表彰の地」という石碑が建っていた。
領内の働き者13名を表彰したのが、そのあたりの酒匂川の河原だったのだとのこと。

小田原藩主大久保忠真 二宮金次郎を表彰の地の石碑

新田義貞の首塚

酒匂川の右岸を海岸に向かって歩き、新田義貞の首塚に行った。
新田義貞の首塚は、

新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死した。
義貞の首級は京都に送られ、都大路を引き回されたのち、獄門に晒された。
義貞の家臣宇都宮泰藤は、 主君義貞の晒首を奪い返して主君義貞の本国、上野国に首級を葬るため東海道を下った。
しかし、酒匂川のほとりの網一色村に達したところで病にかかり再起できなくなってしまったという。
そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられているそうだ。

首塚の石碑が小田原にあることを今回初めてしった。
新田義貞は私の先祖も関わりがあるとされているので、何かの縁を感じた。

新田義貞公首塚の石碑

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