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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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#一里塚

#14なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その2) 

幕府の金銀山の統轄と交通網整備  金山、銀山といった鉱物を産出する山は、為政者から重要視されてきた場所だ。  幕府を開いた家康は、佐渡、土肥(伊豆)、石見、生野(但馬)、足尾などの鉱山資源地の支配力を強化するために、関ヶ原以降、直轄地として管理を開始した。  佐渡金山は、1601年(慶長6年)に徳川の直轄地として組み込まれ、大久保長安が送り込まれた。同年、北山で金脈が発見されたことで、佐渡金山は江戸時代を通して江戸幕府の重要な財源となった。17世紀前半は多く産出されたとい

#13 なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?(その1)

なぜ北陸道の一里塚も整備したのか?  徳川秀忠は家康の命のもと、1604年(慶長9年)から東海道と東山道の一里塚整備に着手しているが、このとき、北陸道の一里塚も整備を開始している。奉行には山本重威と米田正勝をあたらせ、築造を進めたとある。  ところで、東海道と東山道に加え、なぜ北陸道の一里塚の整備も行ったのだろうか?  北陸道は、新潟県上越市の高田から滋賀県彦根市の中山道の鳥居本宿までを結ぶ街道で約400kmの距離を有する街道だ。  1604年時点の情勢を考えると、  

#5 なぜ日本橋が起点になったのか?(その4)

なぜ一里塚を作ったのか?  一里塚の期限は古代中国にあるというが、日本では平安時代末期頃に奥州藤原氏が白河の関~陸奥湾までの間に里程標を立てたのが最初と言われている。戦国時代では、織田信長や豊臣秀吉が立てた塚があるという。  徳川幕府の一里塚の整備は、1604年(慶長9年)、家康が二代将軍秀忠に命じ、日本橋を起点として、東海・東山・北陸の3街道に1里(3,927km)ごとに5間(約9m)四方の塚を築かせ、塚の上には、榎や松、欅を植え、旅行者に便宜を与えたという。  榎、