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能登半島地震 発災半年後の珠洲  


サービスエリアの自販機

能登半島に向かった経緯

 46000株式会社が金沢市内で行っているアーティスト・イン・レジデンス「 CORN 」で滞在制作に入っている間に能登半島にも連れて行ってもらったことが在り、今回の災害は知っている場所で起こった実感があっただけに関心を持っていました。 
                
1月1日の発災直後のテレビの中継映像は衝撃的で、ここって通ったことあるよなぁと思ったりして見ていた。被害状況が気になって年始は特に毎日ニュースを見ていた思う。日が経つとYouTubeやネット記事での報道も能登震災関連の記事が少し減り、テレビではあまり見ることはなくなっていった。そんな中、ようやくボランティア活動が開始できるようになって友人がボランティアで現地に入って様子をSNSで発信していたり、展示会でも喋っていたりと友人からの情報が入ってくる状態になった。

復興に対する知識や災害に対する知識を僕は持ち合わせていないので、その現地の様子を見たり聞いたりしても現地の様子、生活を想像できませんでした。なので現地の生活ががどうなっているのか体験して知っておきたい思いと現地に行って自分ができることは何かなと考えて自分が今まで行ってきた作家活動の何かが生かせるのか、町における芸術イベント、アートイベントなどが現状の町においてどのような役割をもたらしているのか、見て考え、確認しに行くことにしました。

そんなわけで今回は、発災直後から現地の人とやり取りや支援を続けている浅見 風の活動に同行することを決めた。


46000株式会社「 CORN 」 ↓↓
CORN の open call 募集要項|46000inc (note.com)

浅見 風の活動 ↓↓
僕の奥能登支援を巡る旅|浅見風 (note.com)

前回までの浅見 風の能登支援活動

今回の珠洲滞在は、浅見風の前回の活動の続編でもあります。なので今までの浅見風の活動を知っておくと少しわかりやすいかと思います。
前回の災害支援をまとめた「僕の奥能登支援を巡る旅」を見ていただけたら活動内容がわかると思いますが、ここでもざっくりとまとめてみます。

浅見風が初めて能登に訪れたのは、2021年のことだそうです。その時は、 奥能登芸術祭を歩きながら、テントやテトラポットの隙間で寝泊まりして町歩きをしていたらしいです。町歩きといっても、バスに乗りながら街をフラフラ歩いていたわけではなく、移動を全部歩きで行っているパワフルな旅です。そんな時に出会ったのが坂本家でした。坂本家は、旅の道中で疲れている浅見風に宿とお風呂を提供してくれたそうです。その時は、翌日には旅を輪島に進めていたそうです。

(坂本信子さん、坂本市郎さんで「古民家レストラン典座」を経営しています。また、市郎さんは珠洲焼きの陶芸家です。)

坂本さんの家に居た期間は短かったそうですが、今回の奥能登支援の中心地でもある出会いです。

地震の被害は、古民家レストラン典座でも起こっていて、家の一部が崩れそうになって居たり、壁が落ちたりと様々な被害が在りました。
それらの修繕や市郎さんの珠洲焼きの工房が壊れてしまった為に、工房を新しく建て直していたりと活動していた前回です。まだ、工房が建っていないので今回は工房を完成させる事が1つの目標でもあります。


2つ目は、浅見風は、東京にある「保育所空飛ぶ三輪車」と繋がりがあるため、空飛ぶ三輪車と協力して「珠洲市つばき保育園」に食糧支援や遊びの提供を考えてました。

その他にも、現地での炊き出しや、片付けなど色々とやってます。詳しくは浅見風の記事をのぞいてみてください。



今回の活動

市郎さんの陶芸小屋作り

1      珠洲焼き工房の再建 

珠洲市には珠洲焼という焼き物がある 
珠洲焼とは→1. プロローグ - 珠洲市ホームページ (suzu.lg.jp)

前回に引き続き、途中まで建てている陶芸小屋の続きを行った。目標は今回の滞在中に使える小屋として完成させることが目標となっている。今回の災害で珠洲焼きの窯がいくつか壊れたり、作業部屋が壊れたりと珠洲焼きという文化に対するダメージもあった。

珠洲市内で陶芸窯を持っている陶芸家さんはそう多くなく、ほとんど壊れて使えなくなってしまったらしい。その中でも、市郎さんの持っている窯は比較的被害が少なく少し直したら使えるそうだが作業部屋が使えなくなってしまった為に陶芸が出来なくなってしまっているのである。小屋が出来ればまた窯を起こせる。市郎さんが火入れしているところを僕も楽しみにしながら小屋作りをした。作業的には小屋を建てているわけですが、好きな文化の維持を目指しているところなのかなと思う。

つばき保育園前


2 珠洲市つばき保育園で出来ることはないのか

以前、僕と浅見 風で企画して「空飛ぶ三輪車」にて遠足のようなワークショップをやったことがあった。珠洲市の園児達が外遊びや園内の遊びに退屈してないか、刺激や運動が足りていなかったらそういったところを今回の滞在中に企画できたらいいねと珠洲に向かう道中に話していた。

つばき保育園に食糧支援を行いたいと言っていた「トントンパン」さんからパンを受け取りつばき保育園に向かった。

つばき保育園に到着してパンを届けた後に現地の話を聞いた。現在も水が通っておらす手洗いや洗濯がなかなかできていないとのことで砂場遊びも服がとても汚れてしまう場合があるから今は封鎖しているらしい。トイレも一カ所を除いて使えなくなっているとのことだった。

保育園には廊下や玄関などに飾り物やオブジェのような物が置かれているイメージが僕の中にはあったし、みんなで作ったら楽しいだろなと思って色々企画を考えてみたけれど、手が洗えなかったり、汚れが付かないという規制の中でなかなか納得いくプランをひねり出すことはできなかった。今のつばき保育園で出来ることは先生達がすでに行っているように見えていたし、僕達がやるとしたらもう少し後になるのかなと結論を出した。
保育園からは、できることは精一杯やっているそんな印象を受けた。

ボイラー室にて薪で湯を沸かしている

3 あみだ湯の手伝い

海浜あみだ湯」は、発災から18日後に再開した公衆浴場です。
あみだ湯は薪で風呂を沸かします。災害で崩れた住居の木材などを利用してお風呂を沸かしていました。

朝、9時頃からあみだ湯は風呂掃除を始めます。1人でやると3時間かかるそうで、4人でやれば1時間ちょっとで掃除が完了します。その作業と同時にボイラー室で薪を燃やしお風呂を沸かします。大体9時頃から沸かし13時頃にお湯加減がちょうどいいくらいになります。

人がいないとここまでの準備が大変です。従業員も4~5人と少なく、朝の掃除だけでもボランティアで手伝う人が居たらとても楽になるんじゃないかなと思う。

僕は、朝のお風呂掃除、ボイラー(温度管理)と薪割をやっていました。
朝9時頃から更衣室の掃除と補充を一通りやったのち女湯、男湯の順で、洗剤の補充、排水溝の掃除、桶や椅子の掃除、床掃除を行います。それと同時刻に薪を焚きお湯を沸かしていきます。

朝の準備を終え、昼の営業が始まると、水温を維持するために火の面倒を見ながら薪割をやっていきます。薪といっても、家の梁を割っていく作業で、とても固く、重く、立派な木材でなかなかに割るのが難しかった。

営業が終了する頃に1日中沸かし続けた風呂に入るのは本当に気持ちよく良い体験ができたなーと感じた。

やったことが無いからやってみたい。そんな気持ちであみだ湯を手伝うだけでもとても従業員の方々は休めるので是非手伝ってほしい。


滞在まとめ、思ったこと

月が出た


金沢市内を車で通ったのだが、目に見える被害はあまり感じなかった。
金沢市内から珠洲まではまっすぐ行っても3時間はかかるほどに遠く、気が付いたら寝てしまっていた。車がしょっちゅうガタン、ガタン、と揺れだし、起きたら穴水町という能登半島の真ん中あたりに到着していた。穴水では家がちらほら倒壊していたり、家や道路にはクラックが見られ、瓦も落ちたままになっている。今でもこんな姿のままだったのかと思ったし地震でここまでなるのかと思った。復興前の災害地に訪れたのは初めてで、なかなかの衝撃があった。
そこから珠洲までは、山道を通っていくのだが山間部での被害はあまり見られない。それでも比較的新しく建てられた家やアパートが形を保ったまま地盤ごと斜めに傾いていたりした。

珠洲に到着する。珠洲はあからさまに被害がひどかった。道路の両脇は瓦礫の山で、道が土砂で崩れたから土砂の上からアスファルトで固めて道にしたり、マンホールが突き出ていたりと何だこりゃとおもった。 

水平、垂直がない町ってこれか。普段歩いている道がどれだけまっすぐに作られているかを思い出す。電柱や信号機があちらこちらに向いていて、向かなきゃいけない方向に向いていなかったりと中々に衝撃的だった。

それを見て普段から現代の都市や家に生活の退屈を覚えていて、水平で垂直な作りや家の幅や段差がどこも同じになっている事、外観も退屈な四角形のおうちが増えてることが退屈でそういった現代の都市環境を崩した場を作っていってみたいなと思っていた事を思い出した。

今の珠洲にはそういった退屈さはなく、車で移動するときも地上に飛び出ているマンホールに気を付けたり、見えずらくなった信号機や崩れかかっている道を歩いたりと今まで生きてきて気をつけてこなかった感覚がそこにはあってちょっと楽しかったりもした。でも現代の生活様式に合わせられて作られた街が人の意思を無視して先に町が変わってしまった事でどうやって生活していっていいのかわからなくなりそうな感覚もあった。

気を付ける事の楽しみはやっぱりあるのかなと思った反面、人が生活していく前提で抑えてなくてはならない必要な要素が明らかに見えてきて人が生きる以上それがなくなってはいけないなと思う要素も強く見えてよかったと思った。



発災から半年たとうとしてる今になっても、崩れた家の撤去はまだ7件しかできていないと聞いた。住家の損害割合によって段階があり全壊、大規模半壊、半壊、準半壊、一部損害などの段階がある。その段階によって仮設住宅に入れたり入れなかったりする。仮設住宅に入るには中規模半壊以上していないと入る事が出来ず準半壊の人は仮設住宅に入ることはできない。


これに対して、現地の人が段階で決めずに持ち主が住めるか住めないか判断して入れるようにしてほしいと言っていた。地震で家が壊れ、損害割合で分けるより早くみんな仮設住居に入る申請をしたらしい。その時にここでは住めないと自分で判断して申請したが実際に損害割合が出た時には準半壊で入れなかったと。準半壊した家は仮設に入ることができないが家主が体が悪かったりするととても住めなかったりしたら入らしてくれてもいいんじゃないかと言っていた。この細かく割り振られた損害割合が復興を遅くしてる要因じゃないのかと。

7件しか解体が進んでいない理由は、解体作業を進める場合地区ごとでまとめて解体を進めて行うのだが、その地区の一軒一軒から解体の手続きを行う必要があるにもかかわらず、避難していて家主が珠洲に居なかったりすることが多々あるとか。そのため全体からの許可が取れずになかなか進んでいかない。

半年たとうとしてる今も復興はあまり進んでいなく現地の崩れた自治会所では今でも正月飾りが飾ってあり時間が止まったままの姿が今でもみられる。





















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