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僕の奥能登支援を巡る旅



坂本さんとの出会い


2021年秋、奥能登芸術祭をきっかけに珠洲市にやってきた。
歩き始めて何日目だったか覚えていない。奥能登の夜は暗く深い。何十キロ歩いても商店は数えるほどしかなく、最後に辿り着いたスーパー大谷に滑り込む。パンやおにぎりを買って食べながら歩く。重たい荷物が肩に食い込み、足はもうすでに感覚が無い。倒れるようにして吸い込まれたテトラポッドの隙間。10月の寒さに震え、星と波の間に眠った。夜明け前、寒さに耐えかねて高台にあるスズ・シアター・ミュージアム(旧西部小学校)のグランドへ移る。朝日が出てきたので全身で浴びるようにして寝転がっていた。そこへ、一郎さんとコロが出店準備のためやってきた。それが坂本家との出会いだ。(坂本さんたちは大谷町で港の小さなゲストハウス、三崎町で古民家レストラン典座を営む。一郎さんは珠洲焼きの陶芸家)

当時のことを一郎さんに聞けば、僕は薄汚れていたらしい。
まあ風呂にでも入って泊まって行きなよ、と見ず知らずの僕を泊めてくれた。暖かい風呂と寝床で回復し、翌日からまた輪島方面へ歩き続けた。
1ヶ月後にそこのアルバイトに帰ってくる約束をして。
そして翌月珠洲市に戻り、このまちで1ヶ月暮らした。その時の出会いが
僕を奥能登へと駆り立てる。

2021年住んでいた珠洲市大谷町 長橋漁港


発災から


1月1日から能登のことが気がかりだった。
毎日届くニュースや坂本信子さんの投稿でその空気感に触れる。
最初の1週間、動こうと思ったものの余震も続くし、状況も掴めぬまま行くのは危険だと判断して結局動けなかった。自分の仕事をしながら心はどこか上の空だ。焦る気持ちを抑えながら、目の前のことに集中する。過去には西日本豪雨の時に真備へ、千葉県を襲った台風の時は三芳村へそれぞれ数日ボランティアへ行った。毎年毎年のように地震が起こり、台風があり水害の絶えないこの国で、全てに行くことは難しい。忙しさを理由に目を背けてしまうこともしばしばある。でもそこで生きている知人たちの顔を思い浮かべて、想像する。可能ならば現地へ行って何か手伝いをする。
関わる地域を増やし、そこで起こっていることをより具体的にキャッチするために、旅を続けている。


1度目の珠洲入り

3月上旬ようやく珠洲市に帰ってくることができた。SNSで呼びかけたところ普段から尾道で一緒に改修工事をしている大工さんがついてきてくれた。噂に聞いてたとおり街は歪み変わり果てていた。そして元日から何も変わってないことも見てとれた。まだ季節が冬の珠洲では、一日いても数人のボランティアしか見かけなかった。街の人もあんまり見ない。
昔住んでいた「小さな港のゲストハウス」前の長橋漁港は、地震の影響で地盤が3〜4m隆起し、もうそこは港では無くなってしまっていた。

長橋漁港はもともとサザエ漁などをする港だった
能登瓦の棟々が並び、その先には水平線が見える。

信子さんに大工さんです、と紹介したらそれなら屋根を直そう!と
着いたその日から資材調達に走る。翌日から典座にある蔵(宿泊施設になっている)の屋根に登った。その日は快晴で、ブルーシートのかかった屋根の向こうにはいつもと変わらない海の青がある。瓦屋さんも自宅が被災しているにも関わらず来てくれた。重たい能登瓦を下ろし、分厚い土の上から合板を貼り下地を作る。4日間の滞在で、屋根の下地づくりと屋敷のゴミ出しなどを行った。

雪の日の典座


典座は築200年の建物で、損傷は比較的少ない。水は井戸水、下水は浄化槽などの条件から普段通り使えていてそこに泊めてもらう。僕らの他にも個人で入ってきてるボランティアの方は、東北の方が多かった。仕事を終えると、信子さんはいつも美味しいご飯を食べさせてくれる。これはまた来ないとねー、と話す。次回来るときは一郎さんの陶芸小屋を直して欲しいとのことだった。


三輪車を起点に募金を呼びかける

一度東京に戻り4月の能登行きが決まったので、保育所空飛ぶ三輪車を起点に4月1日〜10日までの期間で募金を呼びかけることにした。三輪車では3・11の時もボランティアを出したり支援物資を運んだりしている。当時10歳だった僕はそうした大人たちの姿を間近で見ている。そうした土壌がある。
募金箱を園内に設置し、卒園児やその家族にも連絡を入れた。

募金は徐々に顔の見える人たちから集まり出し、随時食料品などの発注を始める。普段から保育園で取引している無農薬や有機野菜を作っている生産者など信頼のおけるところに声を掛けさせてもらった。そこから食料を買うことで、被災地支援と同時にそこの生産者への応援にもならないか、と考えた。
しかしみな、自分たちも能登へ何かしたいからと、半額で提供してくださったり、送料を負担してくれたりした。お金以外にも下水が復旧しないところでも分解される洗剤なども近所の計り売りのお店から寄付してもらった。それを現地の方と繋ぎ必要であれば、箱単位で無償提供してくれるとのこと。そうした物資の支援の話も広がっていく。
そして募金は総額1146581円にのぼった。本当は行きたいけど忙しくてとか、大きなところへ寄付しても何に使われているのか分からいから君に託すよ、という方が多かった。たくさんの想いを受け取った。

迷宮堂にて能登ボランティア報告会をする

募金期間、僕はというと尾道にて迷宮堂の改修工事をしていた。尾道滞在の最終日、4月4日迷宮堂にて能登ボランティア報告会を行った。20数名集まり珠洲市の信子さん、一郎さんとオンラインで繋ぐ。発災当時の様子から、珠洲市の現状まで生の声を聞いた。後半はそれぞれ現地に行って感じたことを話す良い会になった。「忘れられるのが怖い、とにかくまず見にきてほしい」という信子さんの声。想いが届いたのかこの会を契機に4人ほどボランティアに来てくれる流れになった。

⇩の投稿から動画にて会の様子が見れるのでぜひ。


2度目の珠洲入り、食べ物の配送とお弁当事業

4月9日、車で能登を目指す。道すがら長野県小谷村の信州共働学舎に予めお願いしていたお米を受け取りに行く。20キロの学舎米を買ったら、さらに学舎からと卵80個ほど、パン、クッキーやパウンドケーキを寄付してくれた。10日、所用あって福井の美術館で1日作業する。福井の制作チームからもお金と想いを託される。

翌11日、眠い目をこすりながら尾道メンバーと合流するため金沢へ向かう。金沢で合流し、志賀町、穴水、宇出津を経由し珠洲市へ入る。この日は到着が遅くなったので、典座に顔だけ出しボランティアキャンプすずにてテント泊。みんなで釜で火を炊いてカレーを作って食べた。3月の段階では2〜3人だったのに対しこの日は20数人いた。暖かくなって人が増えているのを実感する。いろいろなボランティア団体の方に声をかけられる。みな手探りの中で、どこに何が必要かリサーチして支援を行うことに尽力している。夜はまだ寒くちゃんとは眠れなかった。1月の寒さを想像する。

ボラキャンすず
尾道からの友人たちと

翌日から、小学校(避難所)や珠洲市立つばき保育園、宿を再開した湯宿さか本などに野菜や卵、柑橘の箱を届けてまわる。その際に中を見させてもらったり、話を聞いて回る。避難所では、体育館や教室を寝床とし生活を続けている人がまだ多くいる。その隣の教室では普通に授業が行われていて、グランドには仮設住宅立ち並んでいる。そんな状態だ。昼は各避難所で炊き出しを行い、夜は信子さんたちのお弁当を食べているという。まだ下水がつながっていないため、トイレは仮設、風呂は自衛隊の沸かす通称自衛隊風呂を使っているという。尾道から来た友人たちは、お弁当事業の実態を知るべくお弁当の詰め作業の手伝いに参加していた。

朝7時から1400人分(珠洲市には現在食料支援が必要な方が2500人いて、残り分はもう一つのグループがカバーしている)のお弁当を作り、詰め作業が終わるのが14時くらい。そこから15箇所の避難所へお弁当を配送する。
これを毎日行っている。信子さんのお弁当のところで、暖かいスープを作って、つばき保育園のお昼に添えられないかとのことで、寸胴もこちらの募金から購入。

尾道から来てくれた田中さんが、
一連の体験と珠洲で見聞きした現状をまとめてくれたのでぜひ一読を。

活気のある朝日避難所、現在も20人ほどの避難所生活の方と車中泊の方が暮らしている。

16日朝からつばき保育園の園長さんのとこに話に行く。坂本さんが以前送ったアレルギーに対応したパンがとても喜ばれたそうで、それの定期便を送らせてもらうことになった。また数日前に持っていた柑橘も喜んでくれていた。


陶芸小屋の再建に向けてスタート


午後、小屋再建の材木を受け取るため輪島にある製材所に向かう。約束の時間より少し早めに行って、輪島朝市の様子を見にいく。珠洲に住んでいた時、休日によく輪島に遊びにきて、朝市で魚を買って東京へ送ったりしていた。そのくまなく歩いた街が丸ごと燃えていて、残るは赤茶けた鉄骨造の建物と金属類だけだった。生物の気配は全くしない。時折吹く風にトタンが擦れる音がする。約300棟が焼けたこの被害範囲は、相当に広い。外周歩いて回ろうとしたら15分くらいかかる。

焼け野原の中に鯉のぼり、2023年の5月5日にも大きな地震が能登を襲った。

材木を受け取って、珠洲市に帰る。今回の地震で陶芸小屋の木造部分が壊れてしまったので、それの再建をする。今回のメインの仕事だ。
珠洲市に18個ほどあった珠洲焼きの窯で残ったのはここだけだそう。解体作業はすでに他のボランティアの方がしてくれていたので、地面をならすところから始めた。

タコという道具で地盤を固め、束石を並べる。そのタイミングで一緒に計画していた翔さんが切り上げて帰ってしまったので、突然一人現場となる。信子さんはどうする?今回はやめる?と僕が建てられるのか半信半疑だったが、やめる選択はなかった。小屋は建てたことがなかったし、急いで製材してもらった柱材は水が抜けていなく、とても重い。いろいろ不安がつのるが、こうなったら手と頭を動かすしかない。
手伝ってくれる2人と柱を一本ずつ建てていく。ふらふらになりながらやっとの思いで、14本の柱を立てた。でもそれだけでは傾いているので、近くの木や電柱からロープで引っ張って水平垂直を出す。その間に束石の周りを、コンクリートで固めていく。土台が固まったら床を繋ぎ、貼っていく。

このタイミングでもう一人、尾道の仲間が来てくれたので2日間一緒に屋根を貼る。おかげでなんとか当初の予定だった24日を前に雨仕舞いまで終えられた。24日には久しぶりの雨が降って、桜が散った。

あとは屋根材を葺き、窓とドアを入れて、外装、内装を仕上げれば完成だ。
典座に眠っていた古材を磨き、要所要所で使っていこうと思っている。これらの作業は次回5月下旬に行う予定だ。能登に大工は足りてないから、もし時間が許せば工具を積んで歩けば、いっぱいやることはあるだろう。

帰り道と能登の工芸

滞在最終日、一郎さんのろくろ場で少し陶芸をやらせてもらった。来月また行く時に、震災後発の窯に火入れをするそう。これは楽しみだ。典座にあった古材と囲炉裏で燻された古竹を少しもらう、これを5月にある尾道因島の祭りで何か作品にしよう。途中、輪島市の山の中で紙漉きを再開した能登仁行和紙さんにて和紙を仕入れた。こちらも作品に使わせてもらおう。

和紙工房の煙突から煙が上がる
こちらも独自にテントなど用意してボランティアの受け入れを始めた。

その近くにある里山まるごとホテルを拠点とするのと復耕ラボにも立ち寄る。こちら輪島市でも珠洲市と同じように、ボランティアとボランティアを必要とする人のマッチングがうまくいってない模様。GWは人がたくさん来るが、どうなることやら。災害ゴミで出される古材をレスキューして、再構築出来たらいいですね、とそこの人と話しあとにする。

つばき保育園にパンの定期便


翌日小松市にあるアレルギー対応パンのトントンさんへ向かう。つばき保育園に毎週送りたいのだが、120人分を頼むには顔を出さないと。代表の、井藤さんと小一時間くらい話す。いろいろ思いが近いこともあり、割引価格で提供頂けるとのこと。第一便は5月21日に僕が珠洲市に戻るタイミングで受け取り、直接つばき保育園へ届ける、ということになった。続けられる限り定期便で届けよう。こうして、いままで付き合いのあったところ以外にも、この活動を通して繋がっていくのはとても嬉しい。近くにある自然食品の店otteさんにも顔を出す。

帰宅、そしてこれから


そして車にて東京の自宅へと帰宅したのが昨日。
今日はこの長い長いまとまらないまとめを書いている。
明日にはみどりの祭典というお祭りがあって、空飛ぶ三輪車は野草の天ぷら屋を毎年出している。そこで今回三輪車関係の方から多く募金してもらったので、活動の報告をさせてもらう。さらには5月12日に尾道であるbigbeachmarketにて会場の装飾を作るので、そこでも典座の廃材や古竹、和紙を使って作品を作り、能登のことを発信しようと思う。


5月21日からはまた友人を誘って、一緒に珠洲市へ行く。
やれることはまだまだあるし、まだ何も終わってはいない。それに向こうでは大変な生活が続いている人がいる、そのことを忘れずにいようと思う。



この記事を読んで、どんなに些細なことでも能登へ興味関心を持ってくれたら幸いです。さらに一緒にこの能登を巡る旅に参加してくれたら、より嬉しいです。今回の一連の活動の中で、支援してくれた方、実際に手を動かして助けてくれた方、出会えた方々ご協力ありがとうございました。また会う時はよろしくお願いします。僕は旅を続けます。

4月28日 浅見 風



ご協力いただいた皆様


食材提供

三芳村生産グループ 


信州共働学舎


ぼちぼち農園

栃木県茂木町 九石さん(元空飛ぶ三輪車職員)


アレルギー対応のパンTONTON



物資提供、またその紹介

はかり売りの店lagi


All things in Nature




古民家レストラン 典座


空飛ぶ三輪車


迷宮堂



募金の集計報告(5月1日時点)



募金の総額は1146581円でした。
現地で自分も被災していながら、炊き出しを続けている典座(てんぞ)の坂本子さんとその使い道について一緒に考えている状況です。いま現在、珠洲市立つばき保育園への支援を考えています。

5月1日現在支払済みなのは、
三芳村から野菜、柑橘類、卵、マヨネーズ等18箱  101900円

栃木県茂木町の九石さんからさつまいも
100 kg 30000円

愛媛県のぼちぼち農園から柑橘類 10箱 25000円


信州共働学舎からお米、卵、パン、クッキー等
10000円

つばき保育園へ紙皿、紙コップ 15000円

つばき保育園へ暖かいスープなどを届けるための寸胴 3個 58000円

239900円です。残り906681円については、5月21日からつばき保育園へアレルギーに対応した誰でも食べることができるパンや果物の定期便や、まちで沸かし続けている銭湯への支援、被災地のまちづくりを失敗させないために行う東北へのスタディツアーの支援など、僕が直接出会った顔の見えるひとへの支援に充てさせていただきます。また動きがあれば、報告します。

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