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ワークショップ・フェスティバルという山(転載)

【お知らせ】
アーツ・ベースド・ファシリテーター養成講座の第4期が2024年1月から始まります。
今回はオール対面。東京の中目黒で開催です。
ファシリテーションに関心がある方にオススメです。

プレイバック・シアターラボのnoteに掲載された文章を、以下に転載します。ワークショップ・フェスティバル2023で、ファシリテーターとして経験したことを書きました。

たかこ

ワークショップ・フェスティバルは、わたしにとって「大きな山」だった。いったいフェスで何にチャレンジし、何を経験したのだろうか?

自分の個人的な価値観を外に向けて発信すること

演劇的手法を用いたワークショップや即興劇に出会ったのはコロナ禍以降だけれど、体験学習法としてのワークショップやファシリテーションそのものには、若い頃にすでに出会っていた。

20〜30代は、福祉教育の分野で働いていた。恩師たちが作ったプログラムに、ファシリテーターの一員として関わらせていただく機会を多くいただいた。その仕事がとても面白くて夢中になった。しかし、同時に、自分の実力のなさを痛感するばかりで、自信がなかなか持てずにいた。講義をする時は、自分が語っている内容に対して「本当にそうだろうか?」と疑い、コミュニケーションに関するワークショップをやる時は、「わたし自身は本当に聴けているだろうか?」と問わずにはいられなかった。不全感に突き動かされるようにして、手当たり次第に研修に出かけたり、本を読んだりした。今となっては、そんな経験をしたこと自体が、本当にありがたいことだと思えるが、当時は苦しかった。実力が追いついてなくて、「こんなことをしています」と胸を張って言うことなどできない気がしていた。

その後も、葛藤は常にわたしについて回ったのだが、ヒントは意外にも合気道にあった。合気道を学ぶにつれて、自分が抱えている課題の構造が徐々に自分なりに理解できるようになっていった。それによって何かができるようになったわけではないが、少なくともどの方向性に進んだらいいかは、自分の中で明確になっていった。しかし、それを外に向けて発信するということはなかなかできなかった。

転機は、今年のアーツ・ベースド・ファシリテーター養成講座(ファシ講)だった。詳しくはまた別の機会に書きたいと思うが、半年間、ファシ講の中でたくさん語り合い、たくさん書き合うことを通して、自分の今までの歩みが大きく統合されていった。

ファシ講終了と同時に、仲間と一緒にアートde対話というオンライン・ワークショップを始めた。noteアカウントも作って、外部に向けて発信するという小さな一歩も踏み出した。でも、noteには自分たちのプロフィールを載せず、申し込み方法すら載せず・・・。一体この活動を発信したいのか、隠しておきたいのか、どっちやねん!と、時々自分たちでツッコミつつ、でもまぁわたしたちなりのペースでやろうとゆっくり歩んでいた。

ところが、フェスにエントリーすると、否が応でも自分自身を外に向けて開かざるをえないハードルが次々とやってくる。フライヤーを作成する。プロフィールを書き、顔写真撮って、ホームページに載せる。インタビュー動画を撮り、YouTubeで公開する。集客のために自分のSNSに情報を載せる。出会った人にフライヤーを手渡す。開催後は、自分がファシリテーターとして経験したことを記事に書く。強制ではないものの、こういった開示が当たり前のように求められる。そのたびに一瞬戸惑い、でも誰かに背中を押してもらえることがありがたく、考え込む暇もなく、えいやと超えていった。やってみると案外楽しいプロセスだった。

自分なりに大事にしたいことが少しずつ明確になってきた今だからこそ、できたのかもしれない。自分の内側とつながった発信をすることは、それがどんなに小さなことであっても、自分は確かに今この世界に存在していると実感する。

フェスがあったおかげで、羽地さん由梨さんがスーパーバイザーとして見守っていてくれたおかげで、ゆきのさん(プログラムEのコ・ファシリテーター)が相棒として隣にいてくれたおかげで、やっと何か大切な一線を超えることができた。


自他を感じながらいるということ

わたしがファシリテーターとして立つ時、アートを用いるかどうかに関わらず、わたしがやりたいことの中核は、今も昔もあまり変わってはいない。それは、今までは「聴く」という言葉で表現していたけれども、フェスが終わった今は、もしかしたら「感じる」の方が、近いのかもしれないと思うようになった。自分が自分自身の感覚とつながっていること。他者を感じ取っていること。できれば、こちらが相手を感じ取っていることを、相手自身も感じていること。わたしにとって、こういう感覚があるかどうかが、一番大事なことだ。わたしが毎回緊張しながらも、チャレンジし続けていることは、これだと思う。

若い頃に苦しんだのは、なんらかの役割を持って場に立った時に、自分自身の感覚と言動との間に一瞬のズレが生じてしまうことだった。そうなってしまうと、他者を感じ取るということにおいても、微妙なズレが生じてしまう。それはわたしにとっては、いい働きができていないことと同義であった。

フェスでは、特に初日はとても緊張したけれども、それでもわたしは常に自分とつながっていた、という実感があった。それはとてもうれしいことだし、自信になった。

でも、他者を感じとることにおいて、失敗もあった。緊張していて余裕がなかったこともあるかもしれないが、きっとそれだけではない。場で起きていることへの理解が不十分だった。場に対する洞察がまだまだ足りなかった。参加してくださった方々一人一人を大切にしながら、それぞれのペースで自分や他者を感じ、表現し、分かち合い、支え合い、学び合う場をつくっていけるように、これからも一歩ずつ精進したい。

しかし、他者を感じることができたと感じる瞬間もあった。わたしにとっては確かな手応えとして、その実感と体感が残っている。できなかったことへの反省と同じくらい、できたことも大事にしたい。できたことを足がかりにして、少しずつそれを広げていきたい。


それにしても、時々ふと、「なんでわたしこんなことやってるんだろう?」という思いがよぎる。フェス当日の朝も、雲ひとつない青空を見上げながら会場へ向かって歩いていたわたしは、ふと不思議な気持ちになった。数年前までは、「アート?わたしには難しくてようわからんわ〜」、「即興劇?うわ〜、そんな恥ずかしいこと、よーやるな〜。全然興味ないわ。」なんて思う人間だったのに。なんだか不思議で、ちょっと笑えた。でも、「きっとこれでいい」と思えてならない。


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