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たかこ先生のレッスン徒然日記vol.35『暗雲立ち込める船出…にもならない始まり』

町田市でピアノを教えています田中ピアノクラスの田中貴子です。
いつもお読みくださってありがとうございます。

平和で幸せなピアノ生活から一転した小学生の終わり。
前の日記にも書きましたが、自分が積み上げてきたものをフルモデルチェンジすることを余儀なくされて、取り組むもの全てが岩山のように目の前にそびえ立ち、登ることもできず、登ったとしても周りを見る余裕もなく、ただただ「出来ない自分」と向き合うしかありませんでした。

自分が思うよりかなり「出来ない」と感じ始めたのは、先生探しの段階からでした。
聴音ソルフェージュのために音楽教室や個人レッスンを当たると、あまりの出来なさに「3年で追い付くのは無理」と断られました。
またピアノも数名の先生から「基礎が足りない」とこちらも3年で受験レベルに追い付くのは難しいと判断されました。
当時それなりの曲を弾いていたので、この経験はかなり堪えました。
先生が決まるまで、またレッスン体制が整うまで2ヶ月くらい要したように記憶しています。

特殊なメソードで育ってきた小学生、思考も実際の演奏も、音楽に対しての理解も偏ってしまってました。
今なら分かりますが、当時の私には理解の及ばないことでした。

数ヶ月前まで師匠に音高進学を勧められ「将来、ピアニストになれたらなぁ」と漠然と夢を持ち始めていたのに、
あっという間に「私を教えてくださる先生はいないか」「どうやったら音高に入れるレベルに到達できるのか」ということが目標になってしまっていました。
この落差はかなり強烈(笑)
現実知るということは、大なり小なり「心の痛み」を伴うということを12才の子供が経験するわけです。
それでも不思議なことに、そこで「諦める」「辞める」という選択肢は浮かんできませんでした。
鈍かったのでしょうか(笑)
かなり強烈に自分の実力を否定されても、「そうなんだ。。じゃあどうすれば?」と必死に考えていたように思います。
ダメだったら次、ダメだったら次と師匠も根気強く私のために先生を探してくださいました。
師匠がなぜここまでこだわって下さったのか今もって謎です。。
(注釈・我が家は子供が音楽の道に入ることは希望していませんでした)

小学校卒業のあたりで、新しい環境がようやく決まりました。
ピアノのレッスンはオーストリア・ザルツブルクの音楽院を卒業された素晴らしいピアノを弾かれるピアニストの先生が引き受けてくださいました。
聴音ソルフェージュは当時横浜に出来た桐朋の子供のための音楽教室戸部教室に入ることが出来ました。音符を書くのも恐る恐るで覚束ないレベルでした。

中学校の部活は『帰宅部』。
週末は音楽教室とレッスンでつぶれる生活が始まりました。

まず、やらなければならない曲の多さにビックリ。
ハノン、ツェルニー40番、インベンションの復習(インベンションは終わっていたのですが、あまりに基礎力がなく何曲か抜粋しての復習から始まる)、古典のソナタ、ロマン派以降の曲。

当時使っていた楽譜。ヘンレ版はすでに表紙が分離してます。ハノンは一回では終わらず何度も繰り返し使いました。

ハノンをある程度速く弾くのが本当に難しくて、最初は打鍵を意識して1曲通すのがとても難しかった。移調の練習はさらに難しく。。
ツェルニーもでしたが、なんとなくは弾けるけど、打鍵を意識すると指が最後までもたない。

ピアノを弾くってこんなに大変だったのか?!

3歳になる前から弾いてるピアノですが、大事なところを意識できていなかったことに気付きました。

残念なことに、、、
気付いてもなかなかすぐに解決できることではなく、なぜ、レッスンしてくださる先生がなかなか見つからなかったのか、子供心に気付いてしまいました。
まともに音階一つ弾けず、指使いすら意識できない。
逆にふと思ったのです。
ピアノってそれがなくても弾けたように思えてしまう楽器だったんだ。。
そしてさらに気が付きました。
気持ちがあっても解決しないことが沢山ありすぎる。。

その瞬間
「ピアノは楽しい」
の世界は完全に闇の中に消えていってしまった中学一年生の春。
それでも、たかこ先生の中に『ピアノを辞める』『音高を諦める』という文字は全く浮かんではきませんでした。
ホントにホントに鈍かったんだと思います(笑)(笑)

お読みいただいてありがとうございます。
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