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たかこ先生のレッスン徒然日記vol.21

町田市でピアノを教えています田中貴子です。

ひと昔前まで生徒たちのコンクールシーズンは大体決まっていて、夏の繁忙期を過ぎると落ち着いていたのですが、
近年そういうわけにはいかなくなり、年がら年中、何某かコンクールがあります。
バタバタしているうちに、今年も残すところあと2ヶ月ですね。

「たかこ先生のレッスン徒然日記」
どこまで書いたか忘れてしまうくらい、久しぶりになってしまいました。
半年ぶり!?😱
確か小学校3年生くらいまで書いてきました。

伸び伸びと育ってきた たかこ先生。
ピアノは相変わらず母からの締め付けはなく、ほぼ放任。
ただし、練習時間は学年進む毎に1時間プラスされていて(これは放任とは言わない!?)
自分で工夫しながらやっていて、嫌ではありませんでした。
3年生なので練習時間は3時間くらいですね。
この時間加算は6年生まで続きます。
6時間というのはなかなか難しかったのですが、平均4~5時間程度は弾いていたと思います。

小学校卒業する頃までは、復習という復習を繰り返しました。
プログラムのほとんどは、バッハ、スカルラッティ、ヘンデルを中心にしたバロック、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンを中心にした古典派の作品でした。
ロマン派は大曲というよりはシューマン、チャイコフスキーなどの小品を中心に、
シューベルト、メンデルスゾーン、ウエーバー、カバレフスキーもよく弾いていました。

楽譜を1冊買ってもらうと、大体数日で全曲譜読みをして、気に入った曲をずっと弾いているタイプで、お気に入りを探すのが何よりの楽しみでした。

ここで、疑問に思われる方がいるかもしれません。
その頃、私は正直に言えば「ドレミ」でしっかり楽譜が読めていたわけではありませんでした。
なのに譜読みができるというのは矛盾しているように思われるかもしれません。

ドレミが読めることと、
楽譜がわかること、
同じようでちょっと違う。

ドレミがそれほど読めなくても音を探り当てることは可能で、楽譜を図形としてとらえると知らない曲でもある程度形が見えてきます。
きっかけさえあれば大丈夫でした。

専門に進もうとしてから、なぜか「ドレミ」にとらわれて読まなければならないと「思い込んだ」ことで、かなり譜読みに苦しむことになります。

様々経験して思ったこと、
結論としては両方の感覚ともあった方が良い。
ドレミが読めた方がいいし、他の見方も出来た方が良い。

とにもかくにも、、、
ドレミが(それほど)読めなくても、楽譜から音を起こすことはそれほど難しくなかった、ということです。
想像しにくいかもしれませんが、譜読みはドレミで読めと言われてから、地獄のようなピアノ生活になりました・笑

そのお話はもう少し先にいってからたっぷりとできるかと思います。

小学3年生くらいのたかこ先生にはピアノ以外に越えなければならない壁がありました。勉強における母のスパルタにいかに耐えるか、、、毎朝起きた時にまずそれを考えなければならないほど、母は勉強に関してはとにかく厳しかった。

思えば幼少期から(記憶に残っているだけでも)
字を覚えるのが遅かったり、
時計の文字盤が読めなかったり、
出来ること、興味をもてることはすんなり出来るのに、
出来ないことに対して「理解しないと先に進めない」ことは
母にしてみたら心配だったのだと思います。
どこかで妙な躓きはしないか、
なにか極端に理解できていないことがないか、
厳しく見られていたように思います。

解けない問題は私が泣こうが喚こうが、
忍耐強く「考える」時間を作っていました。
(子供の私にはかなり拷問的時間😅💦)

でも、
考えてるうちになにか「答えらしい」ものが見えてくる。
出来ないなりに、
この傾向の問題は好きだな、
これはいくら考えても分からないな、と区別がつくようになってきて、
好きなことはいつでも出来るから、
苦手なものを今日はやってみようかと取り組んでみる。
自分からそういう問題に取り組んでる時には母はなにも言いませんでした。

本を読む、
音楽を聴く、
ピアノを弾く、
勉強をする
どれも時間が必要なことばかりで、子供らしい「遊び」まで十分に時間が作れたとは言えませんが、それでもスポーツ大好きで年がら年中走り回っているような子供時代でした。

多少身体は弱い傾向にはありましたが、それほど大病することもなく育ってきていました。
そんなある日朝から発熱があり、学校を休みました。
病院でもらった薬でいったん熱は下がるものの、翌日にはまた熱が出る。
そのうち咳が出始め、病状が良くなることがありません。

そのうち、入院する話にまでなってしまいました。
結果的には母は私を入院させず(なんてこった・笑)、岐阜の祖父母の家に連れていきました。
田舎で療養生活、学校休むこと1ヶ月以上。。。

今にして思えば、
この大病は分岐点だったようにも感じます。

学校に戻った時、不思議な感じがしました。
毎日輝いて見えていた景色が違うものに見え、
興味をひくものが変わっているのを感じました。
実は病気の前まで私にとって「一番」はピアノではありませんでした。
将来の夢も音楽に関係していることではなかった。
小学3年生時点では将来の夢は「野球選手」になることで、誕生日プレゼントにグローブと野球のボールを買ってもらいキャッチボールの練習をするほど、家にはバットもあって、毎日振り回していました。
それなのに、
大病後、優先順位の「一番」にピアノがきていました。

幸か不幸か。。。💦

多分、そこから本当の意味でのピアノ人生が始まったのかもしれません。

お読みくださってありがとうございます。
生徒たちと向かい合いながら、音楽に向かいながらの毎日で、ついつい更新を怠っておりますが、気長にお待ちいただければ有り難く思います😊

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