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天衣無縫

織田作之助の短編小説「天衣無縫」を読んだ。多くの人に読んでほしい、と思ったので、紹介してみることにした、

小説「天衣無縫」は、「織田作」こと「織田作之助」の傑作短編小説で、いろいろな本に収録されていると思うけど、私は、小説と同じ題名の角川文庫の文庫本『天衣無縫』の中にあったものを読んだ。

私が、文庫本『天衣無縫』を手にとったのは、表紙に描かれていたアニメ『文豪ストレイドッグス』のキャラクター「織田作之助」のイラストが、イケメンで素敵だったからだ。『文豪ストレイドッグス』は中島敦、太宰治、芥川龍之介といった文豪たちが繰り広げる異能アクションバトルアニメ(漫画もあるけど、私はアニメ勢。)そのアニメの中に、「織田作之助」も登場していて、彼は「天衣無縫」という異能力をつかう。

織田作之助『天衣無縫』角川文庫, 2016



だから、この、織田作之助(作家)の短編小説集は、アニメ(漫画)のキャラの「織田作之助」が描かれていて、本のタイトルは『天衣無縫』だ。この文庫本には、「夫婦善哉」「俗臭」「放浪」と芥川賞候補になった「天衣無縫」より有名であろう作品も収録されているが、織田作(アニメのキャラ)のイラストの表紙なのだから、本の題名は『天衣無縫』なのだ。

「表紙目当て」で本を買うなんて小説や作家に失礼だ、と思う人もいるかもしれないけど、洒落や滑稽を取り入れて俗世間に寄せた趣向をこらす作家「織田作」は、私が、表紙がステキだったからその本を買った、と言っても、怒らないと思う。

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私は、「天衣無縫」の出だしの一文で、一気に作品に引き込まれた。

その、出だしの一文は、こうだ。

みんなは私が鼻の上に汗をためて、息を弾ませて、小鳥みたいにちょんちょんとして、つまりいそいそとして、見合いに出掛けたといって嗤(わら)ったけれど、そんなことはない。

「みんなは、私が、いそいそとお見合いに出かけたと、笑ったけど、そんなことはない!」て。こんな風に小説の主人公(語り手)に訴えかけられたら、誰だって、その話に聞いてあげたい、その話を聞きたい、と思うと思う。私もその一人で、主人公のお見合い話を聞きたい!と思い、読み始めた。そして、主人公の話に引き込まれ、どんどんページをめくって読み進め、気づいたら、読み終えていた。一気に読み切れた理由は、見開き10ページ、と短かったから、というせいでもあるけれど、「ちょんちょん」とか「いそいそ」とか、簡単な言葉の反復が多く、リズムがあって読みやすかったから、途中で疲れることがなく、読み切れたのだと思う。

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「天衣無縫」の語り手・主人公は、政子という女性。24歳でお見合いをする女性。政子は、当時の社会通念によると「行き遅れた」24歳の女性。小説「天衣無縫」は、そんな政子の視点から、見合い相手であり夫になる軽部清正のことを描いた小説である。

小説の冒頭、政子は、見合い相手の軽部清正を「一口で言えば爺むさい」眼鏡の掛け方をする「風采の上がらぬ人」、と酷評している。「眼鏡」が「爺むさい」のではなく、「眼鏡の掛け方」が「爺むさい」て。なかなか辛辣な批評だと思う。この小説は、最初から最後まで、こんな感じの政子の愚痴で話が進む。

ただ、本を読んで、つまり、その愚痴を聞いていて、嫌な気分には全くならない。政子は、清正の悪口を言って「落とした」後は、ちゃんと清正を「持ち上げ」ている。あるいは、「落とす」前には、ちゃんと「持ち上げ」ている、と言うべきかなのかもしれない。とにかく、この本の中で語られる政子の愚痴は、「愚痴」というより「のろけ話」のように聞こえてくるのだ。

うらやましい。と、私は思った。

ツンデレだ。相手の悪いところ・嫌いなところを挙げられるのは、ただ好き好き言っているよりも、愛情とか信頼とかが深みにあると思う。政子の批判口調は清正への肯定感に基づいている。いやいや、むしろ、政子の批判口調こそが、清正への肯定感だ。

政子のように「愚痴っぽいのろけ話を語る」なんて、私にはとてもできない芸当だ。

私には、好きな人・大切な人の愚痴を他人に言う勇気もない。

私は、自分以外の人のことを語るとき、例えば、友達のことを誰かに話すとき、悪口に聞こうないように、愚痴に聞こえないように、細心の注意を払う。後で、「裏で悪口を言っていた。」と誰かに非難されるのが怖いからだ。いや、本当に怖いのは、友達あるいは自分自身が大切に思っている人が、他人の「告げ口」を信じてしまうことが怖いのだ。大切な人のことを私がそんなこと言うわけないのに、私ではなく他人を信じて、怒ってしまうことが怖いから、信頼関係を試されるのが怖いから、「悪口に聞こえること」「愚痴として捉えられること」は、ゼッタイに言わないように.、「良いこと」しか言わない。気をつかってしまう。だから、私は、人付き合いがめんどくさく、人間関係が苦手だ。つまり、私は、自分以外を信用できない。だから、誰と話していても、安心感・安定感がなく、疲れてしまう。

・・・

私は、この「政子サイド」の愚痴に、政子の清正への愛を感じながら耳を傾けていたが、小説の終盤にきても、ずーっと続く政子の愚痴に、清正はどう思っているのだろうか?、と少し不安になった。文句ばかり言う政子に、ウンザリしていないのかなぁ?と。

そう思いながら、最後の段落にきた。最後の段落に書いてる政子の愚痴は、給料の話だった。

政子の話によると、政子は、ダンナの愚痴を言いながらも、ダンナに発破をかけ遅刻も早引も欠席もさせないで仕事をさせているらしい。なのに、のんきなダンナの清正は、出退のタイムカードを押すことをいつも忘れて、会社に無届欠勤だと思われて昇給していない、とのことだった。

そして、そのことについて、政子は、こう語っている。

その旨あの人にきつく言うと、あの人は、そんなことまでいちいち気をつけて偉くならんといかんのか、といつにない怖い顔をして私をにらみつけた。そして、昼間はひとの分まで仕事を引き受けて、よほど疲れるなだろうか、すぐに横になって、寝入ってしまうのでした。


政子は、このダンナ・清正を、「天衣無縫」だという。


お金にとらわれない清正は、確かに「天衣無縫」と言える。無邪気で、世間の、他人の価値観に左右されず生きている清正は、自由で、最強だ。実際、物語の中で、清正の「理屈屋のお友達」は、「全く軽部君の全くではつくづく自分の醜さがいやになりましたよ。」と政子に告白し、清正の「天衣無縫」に脱帽している。

なるほど、ものごとにとらわれない「天衣無縫」は最強の生き方だ。

「天衣無縫」を読んで、私も天衣無縫になりたい、と思った。清正のように、お金に、モノに、出世に、とらわれず働きたい。そうしたら、会社の「上からの」意味のわからないムダな指示に「NO」と言えるかもしれない。まあ、私は組織に属して働いているので、いつでも自分の好き勝手に行動はできないけれど、清正みたいに「天衣無縫」になれば、少なくとも、世間体・固定観から解放されて、もっと自由に行動ができるはずだ。例えば、女性だから、若くないから、バカにみえるから「やらない」とかいう呪縛から解き放たれて、もっとワクワクして生きられると思った。

そして、「天衣無縫」に生きるには、「天衣無縫」に生きられる土壌とか土台とかも必要だと思った。自由に生きるためには、清正にとっての政子、政子にとっての清正、つまり、お互いに信頼できる、支えてくれるパートナーとか環境とかも、必要なのだと思った。私も、もっと楽しくワクワクして生きるために、私を支えてくれる人を大切にしていきたい、と思う。

この本を読む前は、「天衣」は「天女」の羽衣なのだから、「天衣無縫」とは、天真爛漫で、無邪気で、可愛く、誰からも愛されるキャラとか性格とか、そういう状態の「完璧」な人のことだと思っていた。でも、どうやら、そうでもないらしい。何にもとらわれない、自由な「天衣無縫」であるためには、みんなに愛されるように振る舞う八方美人な「いい人」である必要はない。ただ、自由な自分が「どこかに飛ばされててしまわないように」自分をグッと支えてくれる相棒とか土台とかが必要だと、思った。

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