八十二歳で孫二人とヨーロッパの旅②


一通りすべて観て外に出た。次は、エッフエル塔。

エレベーターであがり、その後セーヌ川クルーズ、シャンデリデ通り、凱旋門とパリ観光の定番で孫達が大はしゃぎだったが、日が暮れると永年主婦をやって来た私は、落ち着かなくなる。

旅行中なんだから、愉しめばいいんだと思い返して、凱旋門の上に登るために、長い列に列んだ。

白髪の私を係り員が見てエレベーターで上がるよう案内してくれた。

孫達も「おばあちゃんのおかげで、速く登れた」と、大喜びだった。

翌日もパリ市内を散策し、古い教会を見つけた。古い歴史ある面持ちから入ってみようか、と3人とも気があった。それはサントーシャベルという教会だった。

中に入ってみると隣の教会建物にはマリーアントワネットの宝探しをしながら、パリの歴史に触れることができた。

そこを出ると、名古屋の孫がスマホにこのあたりに、オリーブ石鹸を売っているお店があると言って、お友達の土産に買いたいというが、オリーブなら、ギリシャか、スペインだろう?と思ったが行ってみた。

パリ四日目。
今日はコルマールという、小さな町へ移動 。

宮﨑 駿のアニメになった、ハウルの動く城のモデルになった小さな町で、のんびり街歩きをした。

姫路の孫が「おばあちゃん、コンビニがあるよ。」と言うので散歩しながら行ってみた。
ワインが3ユーロだった。

ぶらぶら散策して「夕食何を食べる?」「さっきお茶したところだからパン屋さんでパンを一人、1個ずつ買ってそれを割って色々味わってみようか?」
パンを3種類買って5ユーロほどだった。
安いと3人とも顔を見合わせた。

どうやら、ここは物価が安い所らしい。

夜になって、お腹が空いていたのでそのパンを一口齧った。

フランスパンがとてもおいしかった。
35年ほど前に読んだ、森村  桂さんがフランス旅行の単行本に書いていたが、「フランスは農業国から小麦を自給自足で決して他国に輸出しない、政策を゙している。」
と書いていたが門外不出の政策を今もつづいているのだろうかどうか分からないが、こんなよく膨れて中がしっとりしたフランスパンは他の国では食べたことがない。
あらためて認識した。

そして、コルマールからチューリッヒへの列車に乗った。

チューリッヒへあもなく到着というときに孫が、スマホでスーツケースを預けるところを探している。

中央口から左へ少し坂になっていた。5分ほど歩くとDVDのレンタル屋さんがあった。

11時から、お店が開くらしい。
3分ほど待っていたらお店が開いた。

優しそうな奥様が快く荷物を預かってくれた。

今度は銀行へ行ってスイスフランに両替する必要があった。

私は円高のときに替えていた1万円分のドルを持っていた。

それを
「スイスフランに替えて下さい。」
と言うと
「こんなに沢山うどうするか?」
と尋ねられた。

そのくらい沢山スイスフランが返ってくるだろう。と期待して待っていたら、320スイスフランだった。

孫達も両替するつもりだったのに私のスイスフランを当てにして両替しなかったらしい。

おばあちゃんは沢山スイスフランに両替してこのスイスで使い切るつもりらしい。と思ったのかどこへ行っても
「おばあちゃんお金、カード」
と自分の財布を出さなかった。

そしてチョコレート工場へ見学、試食を沢山して、「お昼の食事は入らない。」と言ったので
お昼を遅らせた。
そして夕食を早く、高級レストランにしょうときめた。

チューリッヒ湖に流れ込む川のほとりのレストランで3人それぞれ違うものを注文して、分け合って食べた。


そしてインターラーケンに向かった。

ここは、湖と湖の間に在る街でホテルに着いてコインランドリーは無いか尋ねた。ホテルの近くにあった。

洗濯を済ませ、明日のユングラフヨッホ駅までロープウェイであがるつもりだ。
頂上で食べる軽食とラーメン買った。

30年前、山岳列車ツアーで行ったユングラフでは1時間ほどしか頂上で時間がなかったが、此の度はゆっくり隅から角までアイガーの山やメンヒやアルメントフーベルなどユングラフからよく見えた。

4月か5月以降ならハイキングが楽しめるが、今は雪が多くてハイキングは出来ない。

そしてインターラーケンに戻り荷物をホテルにあずけていたのを受け取り、ツェルマットへ移動。


孫達がツェルマットで予約していたホテルは、ユースホステルだった。

若い時なら、若者同志の交流の場として楽しいと思うが、この年で?まあしかたない!。これも、一生のうちの貴重な体験と思うことにしよう。

道も狭く、坂道ばかりで車も小型で電気自動車ばかりだった。

4人部屋を3人が私達家族だけで使用できた。
がトイレとシャワーは共同だった。

そして窓を開けると、写真でしか見たことの無いマッターホルンが悠然と聳え立っていた。


夕食を取るために、坂道を下ったが食べる所はどこも予約で前日に予約をしないと駄目と断られて困っていたら、一軒だけ、テークアウトのお店があった。

客も沢山いたが、シシカバブーに人参、キャベツもやしなどをクレープ生地に包みアルミ箔に包んで鉄板の上で焼いた。

名古屋の孫がいらないと言っていたのに、きれいにたいらげてしまった。


姫路の孫がスイスに来たかったのは、
ゴルナーグラートからスキーをするのが目的だったらしく、朝早くからスキーの板とズボンと靴を借りに行くと言っている。

こんなところで怪我でもされたら、息子夫婦に申し訳がたたないと思い、止めるために、
「オプショナルでいくんだから、一切お金はださないから」と言うと、
「そのつもりや。」と言って聞かない。

母親にメールを送り、孫がスキーをすると言って聞かない事を知らせた。

母親からは「怪我のないように祈るしか無い」とメールが返ってきた。

母親の承諾を得た。ということでGGBの費用を出してやる事にした。

決して無理をしないようにと言って私と名古屋の孫はマッタホルンを望む展望台へBBGで登り、クルム展望台で3人が揃って昼食を取るようスマホで連絡を取りあった。

ハンバーガーとスープ食べた。こんな高い所で営業するのでお値段は高いだろう?と思ったのが、案外安かった。

そして一人はスキーですべりながら降り、わたしたちはGGBで降り一日が終わった。

この旅も後一日になった。
ツェルマットからジュネーブへ朝から雨が降っていた。

ジュネーブ駅で降り、先ずホテルを探した。

荷物を預けなくてはと駅前の次の道の中ほどに喫茶店があった。

その2階がホテルの事務所で鍵を貰い、明日の朝のモーニングサービスの飲み物を頼んだ。

部屋は4階だった。部屋の中へ入って見ると、3台のベッドがあり、トイレ、シャワーの他に、コンドミニアムになっていた。

スーツケースを置いて身軽になって、レマン湖周りやテレビでよく見る国際の機関の建物を゙見にいこう。

雨の中、バスに乗った。無料だった。

そしてお昼の食事が未だたべていなかった。

「何が食べたい?」と二人に聞くと、チーズホンデュといった。

「もう最後の晩餐なのでいいよ」と言ってお店に入ったが満員だった。

アウトテラスで食べるしかなかった。雨で寒かった。

チーズフオンデユにつけるじゃがいもは小さくて普段、くずいも扱いしているような大きさだった。

サラダとラキョウ、ミニきゆうり、パンだった。私はグラスワインを゙注文した。60スイスフランだった。


スイスのウエイターは何処のレストランでも、背広を着て接待をしていた。

私が支払いをして来ると言って店の中へ入っていったついでにトイレを聞いて使わせてもらい孫のところへ行くと「支払い出来た?」と不安そうにして 待っていた。

孫達もトイレを借り雨の中、バスに乗り降りしレマン湖も縦断したが、船代もバス代も無料だった。

湖も横断して向こう側に行くと、スーパーかあると言っているから言ってみようと孫に言われて、今夜コンドミニアムで料理をしようとスーパーに行ったが、結局パンとラーメンしか買うものがなかった。

朝、目覚めて帰る用意をしてモーニングの差し入れを待った。

6時40分頃だったが、フランスパンとジャムとチーズとコーヒーとココアみかんをお盆にのせて、年配の女性(私よりずっと若い)が運んできてくれた。

ジュネーブ中央駅に向かった。

駅はやはりエスカレーターもエレベーターもないが、スイスは階段とスロープがあったので、フランスよりバリアフリーと言えるかな。

そして、満員の列車に乗り、コアントラン空港(ジュネーブ)に着いた。

早めに荷物を預け、税関で残りのスイスフランを使ってしまおうと思ったが、あと50スイスフランしか残っていなかった。

それに名古屋の孫が姫路の孫に

「お土産は、自分のお金で買ったの」と聞いている。

そうだ姫路の孫にはワイン等を私が買うついでに買ったが、名古屋の孫にはまだ何も買っていないと思い、残った50スイスフランを渡し、妹やお母さんにお土産を買って帰るよう残りのお金全部与え、これでいとこ同士公平に接したと思う。

あの小さかった孫が時代に合った成長をしている。

スマホとクレジットカードで自由自在に旅ができる。

すばらしいなぁと感心した。

そして、アブダビで飛行機を乗り継いで関空へ帰ってきた。

8時間の時差もあり、日中眠く、夜眠れなかった。

1週間経って本調子になった頃、保健所から飛行機で、同乗者の中に麻疹の人がいて、感染者も出たので、3週間自粛してくださいと言う通達があった。


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