わたしの介護経験 その2

私達家族は、夫の両親と別居で車で30分ほど離れたところに住んでいました。私たちの住んでいる所はJRの鉄道の駅の近くにあり、田舎でも便利な所に住んでいましたが、夫の両親は山と山の間に、千種川の支流で秋里川が流れています。のどかな緑豊かな所に居ました。
休日には、田畑を耕し、休日農業野菜作りをしていました。
 両親が80才過ぎ、夫が、定年退職すると、近所の人達が、もう帰ってやらないと、大分両親がボケよるど。といわれていた。
 夫もこれ以上、ほっておけない。同居しようと言い出した。
 便利で住み慣れた家を締め、同居を覚悟した。
 覚悟し、引っ越しの準備しながら、この階段から落ちて怪我をしたら、帰らずに済むのに?とか、お父さんの両親だから、お父さんが介護する義務がある。ワタシはそれを助けるだけですよと、何度も言った。
 夫は素直に、うん、うんと言っていた
そして同居が始まった。
 その頃は、未だ、介護施設もヘルパーさんも確立していなかったので、食事の支度、洗濯、身の回りのことは全部私にかかっていた。
 同居する前にあれだけ、両親の世話は、夫が率先して、やるべきと言っていたのに、パソコン教室に行ってくる。友達と釣りに行くと言って日中ほとんど家に居なかった。
それに、寒い冬の夜に、ハエジャコを取りに行くと言って網を川に仕掛けに行くという。両親の前で喧嘩もできず、黙っていると、やりたい放題で。
とっさに取ってきたハエジャコが付いた網を凍てついた田圃のなかへ、投げ棄てた。
瞬間に網は田んぼに凍りつくほどさむい夜だった。猫が来て網もハエジャコも、ぼろぼろになってしまっただろう。
夫の父は、朝起きて朝食を食べ終わると私に喫茶店に連れて行ってくれ、とか、ドライブに連れて行ってくれ、美味しい食事に連れていけ、ぐらいだったが、家の中を掃除しているとバタバタすると言って怒られることもあった。
 休んでいる時は掃除をされると、落ち着かないらしい。
 母は汚れた洗濯物を隠したり、隠れておやつを食べていたが、みてみぬふりをしてい。た
そして、介護施設が出来、社会福祉協議会から、ケアーマネージャーさんが来られ、デイーサービスに来られませんか?と案内があり、母は、週1回お世話になる事になったが、父は、頑として、そんな所は行かん。と言い切った。
そんな生活が3年続き、正月の3日母が散歩に老人用歩行車押して行って、暫くして帰ってきた。猪に襲われたという。見ると靴の中が赤黒い血が溜まっていた。
すぐ病院に連れて行た。足や腕に引っ掻かれたあとがあった。
20日ほど入院した。一人残された父は、心配して御婆が死んだらワシも死ぬ。普段、仲のいい夫婦とは言い難い夫婦なのに。いつになっても男の人は弱い。
そして母は退院し、元の喫茶店通いとドライブ三昧の、日が続いたが同居して5年過ぎ、突然、父がご飯を食べなくなった。色々すきだった茶碗蒸しや刺し身など何を出してもいらないと言って、手を付けようとしなかった。が、八塔寺へ行きたいと言ったので道も狭いし、夕方なので、夫に連れて行ってあげてと頼むと快く行ってくれた。帰ってきてすぐベッドに入りご飯も食べず寝てしまった。それきり起きる事なく10日間ほど下着も汚す事無く息を引き取った。
全く手の掛からない介護だった。そして母は私達がいたからか、寂しがる様子もなく、デイサービスを増やし、私達の孫が熱があるときには、娘が会社を休めない時は、ケアーマネージャーさんに、母のショートスティを2日ほど取って貰ったことがたびたびあった。私が海外旅行へ行きたいと言ったとき、夫は快く行こうと言ってくれたので、スペイン、ポルトガルの旅に行った時、母をショートスティに預ける事にした。ケアーマネージャーさんが受け入れ先と日数を確保してくださったので久しぶりの旅行を満喫して帰って来るなり、夫の妹が、お母ちゃんをあんな所にあずけて。ぼけてしまうと言って怒られた、愉しむことは罪悪なのかとおもった。介護施設が出来て介護する人が愉しみながらいつ終わるかわからない介護を続けるべきと思ったが、まだまだ、そんな甘いものではなかった。そして介護を始めて、7年半すぎて、夏の終わりに、母が脳梗塞になり、病院に電話した。6時間以内なら、障害なく回復すると言われ病院へ急いだ。
 直ぐに点滴がされた。私が付き添う事になり、点滴をはずさないように見張っていなければならない。
母は昼と夜が逆転して、夜はねさせて貰えない。
昼間に見舞いに来て下さる人があるのにスヤスヤ寝ていて、夜は仕事をしているような仕草をする。幻覚症状を、おこして居るらしい。
もう、寝ようねと、体を寝させようとすると私の腕を噛みつかれた。看護婦さんにお願いして、眠らせてもらった。
1週間ほどで退院した。が、二日目に又、半身マヒした。
車椅子を借り半身麻痺でズボンが履けないので巻きスカート作った。かかりつけ医院から1日1回看護師さんが派遣して下さり躰を拭いたり、着替えをしてくださったり、いろいろ助けていただいて、最後まで見る取ることができた。最後の日、食事が終わった途端に喉がコトン、コトンという音がした。なにか蓋がしまるような、慌ててかかりつけ医院に電話したが、今はちよっと行けません、看護師さんに電話したが遠いい所に居るので直ぐに行けないと言われ、そうだ最後の水を飲ませて上げようと水を飲ませてあげた。
10年間の介護が終った。                           
その3は夫の介護


 



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