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幸子姉ちゃんというのは、僕のじいちゃんのお兄ちゃんの娘さんで、おやじが働いていたゴルフ場のキャディさんをしていた。

ある時、ゴルフをしに来た社長さんに惚れられて、横浜に嫁ぐことになった。それは25年くらい昔の話で、そういった経緯について、僕は近頃までほとんど知らなかった。

「幸子姉ちゃん」とは幸子さんのことをおやじがそう呼んでいるから、僕もそう呼ばせてもらっているのであって、僕の姉ちゃんでもおやじの姉ちゃんでもない。

おやじがゴルフ場で働くようになったのは、幸子姉ちゃんが会社の上の人に勧めてくれたからで、親戚だからという理由だけでなく、幸子姉ちゃんはおやじの仕事っぷりを認めてくれていたからだと思う。おやじはまじめな人だ。

数年に一回ある親戚の集まりで、幸子姉ちゃんは横浜から帰ってきた。幸子姉ちゃんは田川で生まれた人には見えなかった。田川の人には悪いけれど、すごく都会っぽくて、綺麗で、品があった。

「幸子姉ちゃんっち、田川の人なん?」と僕はおやじに聞いたことがあった。「そうばい。でも、福岡に養子に出たんよ。福岡で良い学校に行かせてもらったんやなかったっけ」とおやじは教えてくれた。

なるほどな、と僕は思った。集まりの中で、お料理を出す手伝いをしたり、お茶やお菓子をすすめたりする幸子姉ちゃんは、映画に出てくる女優さんみたいに美しかった。

それにとても気が利いたし、優しかった。親戚のみんなが、幸子姉ちゃんを誇りに思っていたし、心のどこかで横浜から帰って来てほしいと思っていたかもしれない。

僕が小学3年生くらいのある時、おばあちゃんの家ででスーパーファミコンをして遊んでいた。裏口からどんどんとドアを叩く音がして、その時は、家に僕しかいなかったので、裏口まで行き、ドアを開けると、幸子姉ちゃんが居た。

急に田川に帰って来たが、すぐに横浜に戻らなければならず、お土産だけでも渡そうと、家を訪れたのであった。

おばあちゃんの家の裏口は、物がいっぱいある物置からしか入れないし、裏口のドアはお風呂場にあって、凄くごちゃごちゃしたスペースだった。

物置には、玉ねぎとか白菜とか干し柿とか洗濯ものとかが干してある、いかにも田舎っぽい、すごく雑多で汚い感じのする所だったのである。

「あら、今、ゆうくんしかいないの?」

幸子姉ちゃんは僕のことを「ゆうくん」、弟のことを「せいくん」と呼んでいた。

「はい。誰?」

僕は、幸子姉ちゃんだとは分かっていたが、こんな雑多で汚い所に幸子姉ちゃんが来るはずがないと思い込んで、似ているけど、幸子姉ちゃんであるはずがないと思った。

「あら。幸子やけど、覚えてないよね?」

「いや…」

僕は覚えていたし、こんな汚い所に幸子姉ちゃんがくるはずない、と思い込んで対応してしまったことを説明しようと思ったけど、何と説明していいか分からなかった。

僕がテンパったのを察して、幸子姉ちゃんは、微笑んだ。

「いいよ。あの、お土産を買って来たから、あーちゃん(祖母のこと)に渡しとって」そう言ってお土産の袋を僕に渡した。「はい」と僕は答えて、幸子姉ちゃんからお土産を受け取った。

「じゃあね、ゆうくん、元気でね」と幸子姉ちゃんは帰っていった。

あとで、おばあちゃんから「幸子姉ちゃんのこと覚えてなかったの?」と聞かれた。僕は「覚えちょったけど、まさか、裏口から来るとは思わんかったき、違う人かと思った。」と答えた。

裏口から入ってくるのが、他の親戚の人だったら、そんな風になることはなかったかもしれないが、まさかあの綺麗で品のある幸子姉ちゃんが裏口からやって来るなんて、信じられなかったのだ。

7年前、僕のおじいちゃんが死んだ時、幸子姉ちゃんが横浜から帰ってきた。旦那さんも一緒だった。

元社長の旦那さんは、僕ら親族からは不評だった。会社経営がうまくいかなくなったとか、それが原因で幸子姉ちゃんが鬱っぽくなってしまったとか、そんな話を聞いていたからだ。

不評だったけど、旦那さんのことを、誰も攻撃なんてしなかった。みんな見守っていた。旦那さんを否定することは、幸子姉ちゃんを否定することに近い気がしていたのかもしれない。

幸子姉ちゃん自身、旦那さんが不評であることは分かっていたかもしれなかった。

けれども、幸子姉ちゃんは、昔みたいに微笑んで、そして、また横浜に帰って行った。

去年、おじいちゃんの兄が亡くなった。

お通夜にもお葬式にも娘である幸子姉ちゃんの姿はなかった。

自分の父親が亡くなる時に、そこに居れないのは、かわいそうだと思った。それは後悔しても後悔しきれないほど、後悔することだし、悲しくて、苦しいことだとも思った。

そんな幸子姉ちゃんが、今年に入って亡くなったという話をおやじから聞いた。

「えっ、マジで?」と聞くと「胃がんやったんよ」とおやじは答えた。「そうなん」と僕は言ったが、おやじは何も言わなかった。

おやじからその事を聞いたその日は、1月生まれのおばあちゃんとおやじとおばさんの合同誕生会だった。

その日は実家に、僕と僕の嫁、僕の弟と弟の嫁、おかん、おやじ、おば、ばあちゃんの8人が集まっていた。

大晦日の日も、このメンバーが集まって、一緒に紅白を見た。みんなお酒を飲んで、御馳走をたくさん食べた。僕は、途中で眠くなって寝てしまった。目が覚めたら、まだ紅白はやっていて、盛り上がっていた。

おかんが「起きたんね、そば食べる?」と聞いてきたので、お腹はいっぱいだったけど食べることした。

そこにいるみんな、山ほどの御馳走をたくさん食べていて、お腹がいっぱいだと思ったので「おかん、みんなお腹がいっぱいやき、あんまり食べれんばい」と台所に向かって言った。「なら、小さいおわんで食べようね。私もあんまり食べれん」とおかんは答えた。

しばらくして、おかんがお盆に沢山のおわんを載せてやってきた。本当に食うんだな、と僕は思った。

お椀の中には、そばと三つ葉が入っていて、そばの入ったお吸い物のような感じだった。おかんとおばさんがみんなに配って、みんなそばを食った。お腹がいっぱいだったが、すんなり入って物足らなく感じた。

大晦日にそばを食う時、いつも、なんでだっけ、と思う。

なんでそば食うんだっけ。

来年も細く長く生きれるように、とかそんな感じだっけ。

来年もみんな、そば、にいれるようにとか、そんなんだっけ。今、調べてみたらそばが他の麺類よりも切れやすいことから「今年一年の災厄を断ち切る」という意味だと書いていた。

そういえば、毎年、みんな集まって、お腹がいっぱいなのに、そばを食っている。みんな、そばを食う本当の意味を多分わかっていない。

でも、お腹がいっぱいで食うそばは、意外と入るし、美味い。毎年、家族で無理にでもそばを食っていたいと思う。家族が増えるなら、なお良い。毎年、お腹いっぱいのみんなと無理矢理そばを食いたい。

合同誕生会では、大晦日ほどではなかったが、みんなでお腹いっぱいに御馳走を食べた後、ケーキが運ばれてきた。

3本のローソクが灯っていた。ハッピーバースデイの歌を歌った後、おやじとおばさんとばあちゃんは、同時にローソクを消した。

血が繋がっているだけあって、3人の顔は似ていた。

映画に出て来る女優さんみたいに美しかった幸子姉ちゃんも、おじいちゃんの兄の家族で並ぶとやはりみんな似ていたことを思い出した。

確か5人兄弟の大家族だった。バラバラでは、そうは見えないけど、並んでみるとすごく似ていて、その中で幸子姉ちゃんはいつでもみんなの誇りだと思った。ご冥福をお祈りします。

2015年1月27日のmixi日記より

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