「違和感」を「分断のはじまり」にしないために
「なんか違うな」と感じることがある。仕事中にする誰かとの会話、会議での誰かの発言、誰かとする雑談など、その誰かが発する言葉の節々に違和感を感じることがある。
そして、その違和感について考えていくうちに、誰かが発した言葉に、その誰かが持っている認識や価値観が反映されているのではと思った。
そんな時、僕は分断を感じる。その人とは、価値観の違いがあり、認識の違いがある。分かり合えない、残念だ、と分断を悲しむ。
でも、果たして、それでいいのだろうか。誰かとの会話で違和感を感じ、その違和感が価値観や認識の違いによってもたらされたことに気づき、悲しむ、以上。終わり。それでいいのだろうか、と考えていた時。
僕は、ある記事に出会った。大学生がコテンラジオのヤンヤンさんを取材した記事である。
自分は何者なのかという問いを立て続けること
「福岡の今と未来をつむぐ」をコンセプトに、飛躍するまち(フクオカ)の姿を伝えるメディア「フクリパ」。そのサイトで掲載されてた、ヤンヤンさんのインタビューが、とてもよかった。泣けた。
ヤンヤンさんと深井さんの出会いの話や㈱COTENの事業の内容紹介もさることながら、ヤンヤンさんが自己と向き合い続けたことや、歴史を通じて、ご自身の在り方を認めていいと思えたことがとても印象に残った。
そして、この記事の中でヤンヤンさんは「人や社会との関係から自分の立ち位置というものを判断して、そのバランスを取りながら違和感に向き合うこと」について言及されていた。
違和感を感じても、分断するのではなく、バランスを取りながら違和感に向き合うことで自分の立ち位置、つまり、「自分が何者であるのか」を問い続けることが大切であると僕は解釈した。
自分に対する違和感、他人に対する違和感
自分に対する違和感を取り除くためには、自分を見つめ直し、行動するしかない。違和感はブレーキとなってしまい、パフォーマンスを著しく低下させてしまう可能性がある。
一方で、他人に対する違和感を取り除くことについて、自分の持っている認識や価値観を変えようと思うのであれば、変えればいいと思う。
しかし、そのアップデートが自分自身に対する違和感になってしまっては、堂々巡りだ。
例えば、職場での女性が全員のコップを洗う慣習に対して違和感を感じた時、「この職場ではこういう慣習であるのだ」という価値観を受け入れたとする。
しかし、次に感じる違和感は、その価値観を受け入れた自分自身に対する違和感だ。頭のどこかで、おかしいと感じている。一方で、そのおかしさを受け入れてしまった自分がいる。
それは、ナチスドイツのホロコーストをドイツ軍の末端で実際に虐殺を行っていた人たちと同じかもしれない。あるいは、組織に属する自身のイメージに対して本能的に拒絶つつ、時を経て一度就職した、かつてのヤンヤンさんかもしれない。
いや、ヤンヤンさんは、その違和感を無視せず、違和感との向き合い方を主体的に選択していった。ヤンヤンさんは、違和感と誠実に向き合ったのである。
自分の気持ちを大切にして違和感と誠実に向き合う
大事なのは自分がどう感じているか、だと思う。そして、そのことに誠実に向き合うことも大切だと思う。
周りに流されず、それと同時に、分断せず、自分の気持ちに誠実に向き合うことを、これからも大事にしていこうと思っている。
以上です。いつも読んでいただいてありがとうございます。また読んでください。
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