ハンチバックは現代の華青闘告発となるのか?

ハンチバックを読んだ感想と、ハンチバックを読んだ人たちへの感想です。


当事者小説という風評

 ハンチバックには当事者小説(身体障碍当事者が身体障碍について語った作品)であるという評価がついて回っている。受賞者インタビューなどでの発言も相まって、ハンチバックは障碍者をエンパワメントするための作品であり、であるからこそ芥川賞を受賞したとの印象をもたれたきらいがある。エッセイ的な作品であるとの誤解も見受けられる。実際のところは作者本人も語っているように、実体験はそこまで作品の内容に反映されているわけではない。
 イアン・フレミングが英海軍情報部での自らの経験をもとに『007シリーズ』を生み出したように、作家がその代表作においてしばしば自らの最も身近な題材を採用していることはままあるわけで、ハンチバックについてもその域を出ない話だろう。問題提起のために生み出した作品であるとは作者も主張しているが、社会への問題提起の含まれていない純文学作品なんていまどきなかなかないのだから、そんなものは批判の対象とはなりえないだろう。ましてや、障碍者が書いた小説という要素のみで芥川賞を受賞したかのように扱われるような作品では全くない、ということは、ちゃんと作品に目を通した人間には自明である。

尖り切った作風への反応

 読んでみると賛否あってしかるべき作品であることはすぐに理解できよう。無限に吐き出される健常者への呪詛。とても道徳的であるとはいえない主人公の願い。ラスト付近の読者を置き去りにする転調。善良な進歩派の方が何の気なしに手に取ってしまったらショックを受けてしまうこと請け合いの内容だ。あきらかにインターネットの毒沼に首まで浸かった人間の仕事であり、作者のインタビューなどからもダ・ヴィンチ・恐山や小泉悠のようなインターネット巧者であることが見受けられる。SFや時代小説を思わせる状況説明の文体などもあいまって、純文学的でない雰囲気がある。普段は芥川賞受賞作品になど見向きもしない人々にこそ読みやすい作品かもしれない。
 であるからこそ、「露悪的すぎる」「主人公に感情移入できない」「読後感が最悪」などの否定的な評価も見られた。一方で、私の観測範囲で一番多く見られた感想は、「ハッとさせられた」、というものだった。だからこそ、芥川賞を受賞したのだろう。

ハッとする人々

 ハンチバックは紙の本を称揚する人々への告発として生み出された。電子書籍が普及してきた中で、紙の本にこだわる人々というのはパブリックなイメージとしては読書家で、文化的な趣味を持つ、往々にして社会問題への関心が高く、進歩的な人々である。誤解を恐れずにいうと、いまどき芥川賞に関心があるのはどちらかというと左派よりの人々だろう。社会的弱者に寄り添い、エンパワメントするために、自分には何ができるだろう、と普段から考えている人も多いのではないだろうか。だからこそ、ハンチバックを読んで「ハッとさせられた」のである。
 自らのことを弱者に、マイノリティに寄り添うものと規定しながら、実は全く寄り添えてなどおらず、自らの社会的強度とそれをもとにした権威的で家父長的なふるまいを自覚させられることで、「ハッとさせられる」わけである。ポリティカルコレクトネスがブームとなる中で、進歩派を自認する人々に突きつけられた問いが『ハンチバック』というかたちをとって現れたのだ。

文化的リソースの格差

 X(旧Twitter)でこんな議論が巻き起こったことがある。『美術館に代表される文化施設は金持ちのためのものなのか?』という問いである。おそらく美術が、美術館が好きな人がこう反論した。「かつては美術品の多くがお金持ちの個人的な所有物で、庶民は気軽に目にすることなどできなかった。いまは自分のような会社員でも仕事終わりにふらっと美術館に立ち寄って、安価で美術品を鑑賞できる」と。おそらくこの方は都会にお住まいで、夕方には退勤できる仕事をされているのだろう。そして気軽に美術品を鑑賞できるだけの教養がある。では質問だが、はたしてこの人は『庶民』だろうか?
 確かに美術館は誰でも入場できる。科学館や博物館もそうだろう。人種や性別で入館者を差別したりはしない。バリアフリーに気を使い、車いすでも気軽に館内をまわれるのだろう。では仮に、高知県の隅っこに住む、手取り月給15万の人間ならどうだろう?気軽に東京の美術館で、そこにしか収蔵されていない美術品を鑑賞できるだろうか?
 できる、と、気軽にできる、は違うのだ。多くの文化人が、学者が、運動家が、庶民を自認し、自らが強者でありエリートであると自覚していない。なんなら、強権的な政府や抑圧的な社会制度に立ち向かう弱者であるとすら考えている。そういう人々が、誰でも手に取れる価格帯の紙の本を読むことすら困難を伴う人、誰でも気軽に見れるはずの美術品を鑑賞することが一生に一度の思い出になる人の、存在を認識できていないのは仕方のないことかもしれないが、少々腹立たしい。

ハンチバックは現代の華青闘告発となるのか?

 行き過ぎたテーゼが、その振る舞いが乗り越えるべきものとしてきたものに似通ってしまうことはよくある話で、そのわかりやすい例として70年安保に向けての学生運動と、その結果としての華青闘告発がある。くわしくはここでは語らないが、帝国主義打倒を目指した日本の学生運動団体が、その実非常に帝国主義的でナショナリスト的な存在として振舞っていることを、在日外国人学生の団体に公の場で批判されてしまった、という事件である。日本の戦後史を振り返る上で注目されることはあまりないが、新左翼といわれる急進学生運動グループの一部が活動方針を転換し、のちのピースボートなどにつながる「アジアの国々に謝りましょう」路線を強めていく左派運動の流れをつくるきっかけとなった重要な事件である。
 現代では、リベラルを自称する人々が教条的になりすぎており、ポリコレやSDGsに代表されるテーゼを大事にしすぎるがあまり、排他的で権威主義的なふるまいを強めている。自分たちが救おうとする対象ではなく、自分たちと同じ運動をする人々に目が向いて、自らの所属するグループ内での立場ばかり気にしているきらいがある。社会運動というものはえてしてそうなりがちではあるが、SNSなどのコミュニケーション手段の発達に伴ってその流れが加速している。
 社会的強者であるエリートたちが弱者に寄り添うためには、強度の自律を必要とする。そうと知らぬ間に教え導く存在として振舞い始め、気が付けば手を差し伸べる対象を見下すようになる。フェミニストを自称する人間が、ミニスカートを批判し始める現代において、これはなかなか難しいことのように思われる。
 ハンチバックを読んでその振る舞いを見直すのは結構なことだが、進歩派の皆様がハッとさせられて出てくる言葉が、

「紙の本をありがたがることが強者のふるまいだなんて思わなかったです。これからは気をつけようと思います」

では、ハンチバックが現代の華青闘告発となることはできなかったかもしれない。



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