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『失敗の科学』第二章 "人はウソを隠すのではなく信じ込む"

いま読んでいる、読み途中の本を読みながらレビューしています。
自分の読書の記録も兼ねながら、皆様にご紹介。

今回はこちら

ディスカヴァー・トゥエンティワン出版
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』
著者 マシュー・サイド 訳者 有枝 春

第二章 人はウソを隠すのではなく信じ込む

第二章では「認知的不協和」によって嘘を真実と思ってしまう事例が数多く出てくる。

「認知的不協和」
今では聞きなれた言葉だが、最初に提唱した科学者フェスティンガーは、1954年にその提唱元となる事例を実際に見聞きしている。

その他、裁判での冤罪が発覚した際の、検察・警察の態度の事例。心理学実験の事例などで「認知的不協和」のメカニズムを説明する。それは誰にでも起こりうること、自覚が薄いまま、真実を捻じ曲げてしまう。それが第二章のタイトルにも繋がっていく。

「認知的不協和」からは、誰も逃れられず、地位が高くその地位に着くまでに苦労を重ねた人の方が、失敗が起こった時、「認知的不協和」が発生し、失敗を認められず真実をどんどん捻じ曲げていくよ、という事例がジャンジャン出てくる。

ここで、第一章と異なる読書感が襲う。
それは、「じゃあ失敗を自覚できないし、なにも学べないじゃん!」ということだ。

認知的不協和が何より恐ろしいのは、自分が認知的不協和に陥っていることに滅多に気づけない点にある。

p.1371(電子書籍番号)

自覚がないままに、自分の正当性を損なわないように、自尊心を傷つけないように、事実を捻じ曲げたり、認識を後から編集したりする。

でも、と思わず反論を考える。

事例は、検察や学者、知名度や権威のある職業・立場の人。1つの失敗で、地位や名誉が失われる可能性のある人々。そこまでの位置にいる方々であればそういうこともあり得るのかもしれない。でも一般ピーポーである私はそこまで認識をゆがめたりしてるんだろうか?

つまり、第二章の私の疑問は、

・認知的不協和によって、真実と自分の正当性に齟齬があった場合、
真実の方をゆがめ、協和を保つ。そしてそれに気づかない。
のであれば、成すすべがないのではないか。

・すべての人や、すべての事例ーー認知的不協和が起こるような事例ーーで、それは起こるのか?一部の特殊事例ではないのか?

そんなことを思ったときに、また事例ひとつ。

 認知的不協和には、「確証バイアス」という心理的傾向も関連している。ひとつわかりやすい例を紹介しよう。たとえば「2、4、6」という3つの数字を見たら、どんなルールで並んでいると思うだろう? 「2、4、6と同じルールで並んでいると思う3つの数字を好きなだけ答えて、正解を見つけ出してください」と言われたら、あなたはどうするだろうか?

P.1514-1520(電子書籍番号)

 重要なのは、その仮説の正誤をいかに証明するかだ。通常はまず裏付けをとる。たとえば「偶数が昇順に並んでいる」という仮説なら「10、12、14」と答えてみればいい。それがルールに当てはまっていると言われたら、今度は「100、102、104」で確認する。これを3回繰り返せば、ほとんどの人は仮説が正しいという確信を持つはずだ。

P.1527(電子書籍番号)

  しかし、実はそれでもまだ正解かはわからない。もし本当のルールが単に「昇順に並んだ数字」だったらどうだろう? 同じ確認をいくら繰り返したところで、正解かどうかはわからない。しかし、もし戦略を変えて、自分の仮説が「間違っているかどうか」を確認すれば、ずっと短時間で正解を導き出せる。たとえば「6、4、11」と仮説に合わない数列を答えて、それがルールに当てはまっているようなら、仮説は間違いだったとわかる。そのあと、たとえば「5、2、1」で確認して間違えれば、さらに答えに近づける。

P.1527(電子書籍番号)

 ペンシルベニア大学ウォートン・スクールのマック・イノベーション・マネジメント研究所主任研究員、ポール・シューメーカーはこう言う。
 進んで失敗する意志がない限り、このルールを見つけ出す可能性はまずない。必要なのは、自分の仮説に反する数列で検証することだ。

P.1527-1534(電子書籍番号)

なるほど!

この部分を読んで、ちょっとハッとした。確かに、自分の仮説が正解かどうか、確認するためにだとしても「自分では思っていない数列を出す」ことには心理的抵抗がある。

 しかし、それが自分の仮説を検証するために必要な方法という場合だってあるのだ。でもそれが進んで行われない心理的作用があるんだ。

 第二章では、すっきりと「失敗から学ぶ方法」が学べた訳ではないが、「人は時には真実を捻じ曲げてでも、自分の”正解”にすがろうとする」心理作用が働く。ということを意識することはできた。

 その作用やバイアスから逃れにくいとしても、「”失敗を認めることは難しい”、と自覚することで失敗を認められる」ようになるのかな?

第三章 「単純化の罠」から脱出せよ

に続く....


気に入っていただけましたら嬉しいです。 もっと哲学と数学の話として還元します。