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「もの」を創る喜び、読まれる喜び 〜noteを始めてみて〜

noteを始めて、約3週間。投稿数は今回で10回目。
書きたい時、好きな時間に書いている。
投稿間隔とかもあんまり考えず、スマホでポチポチと。

あれは確か23歳。
当時、真鍋かをりがブログの女王を呼ばれていた時代に私も、実はブログを2年ぐらいやっていました。

「世界一しょうもない名言集」と名付けたエッセイ調のブログ。

いろいろあって、あの時のブログはもう消しちゃったんだけど、今考えりゃ残しとけばよかったなと反省している。

約15年振りぐらいにこういった形で、自分の心の中、頭の中を、「言葉」という道具を使い、表現しはじめたのだが、思いのほか楽しくなってきている自分がいる。

なんでだろう。

少し分析的になると、私は営業という仕事柄顧客のニーズというのか、喜びそうな琴線を探るようなことが多い(いわゆる相手との駆け引きや、コミュニケーションが主たる生業)のだが、それって、相手の投げる球を「当て」にいき、たとえどんな投げたボールでも、ちゃんと前に打てることが大切なんだと思う。

恐らく長年営業やってきて、それ自体は好き嫌いは別として、得意だったし、長年掛けどんな球でも打てるようにはなったし、むしろ相手の取りやすいように打てる技術は他人よりも高い方かもしれない。

それって、好き嫌いではなく、私が世の中に出せているであろう「価値」として、今のところはごはんが食べられている。

けど、こういう文章を書き始めて感じてるのは、表現活動って、「ものづくり」なんだなと、やり始めてすごく思うようになった。

今回noteを書き始めたのは、人にたくさん「いいね」を押してもらおう、認めてもらおうという承認が目的ではない。

むしろ、他者関係なく、自分の表現したいことを自由にアウトプットすることを目的としてるので、Facebookのシェアや、友人への紹介も極力やめ、私の知らない人にパーソナルな部分を自然な形で知ってもらったり、自分の生きてきた証拠をnoteで残すことを重要なテーマとしている。

私の場合、Facebookだと多くの「いいね」をもらいに行くような恣意的な記事になったり、比較的繋がってる人数は多い方なので、投稿が炎上しないようにとか、思想に偏りがでないとか、その先の友達という読み手の心情に「当て」にいく表現にならざるを得なくない、いやエッジの効いたことを避け、当たり障りないことを表現してしまう自分がどうも最近イヤに思うようになった。

今回の私のnoteの目的をビジネスに置き換えれば、「マーケットイン」の思想ではなく、「プロダクトアウト」の考えに近いのかもしれない。

しかも、そのプロダクトもニーズやなんや関係なく、「自分が創りたいものを表現する!」という誰にも縛られないものづくりが体現できるのが、私が楽しく感じている理由なんだろうなと思う。

そう、今は相手が投げる球を気にするのではなく、自分が投げたい球を自由に創って投げている。

私は根っからの文系で、手に職などといった技術もない。
けど、こうやって言葉という道具を使いながら、文章を組み立てるのは立派なものづくりじゃないかなと考え始めると、ものづくりって楽しいのと、案外そういうのに没頭している自分に気が付きつつある。

私の投稿を見てくれた回数が昨日で100を越えた。

承認されることを目的とはしないとはいえ、こんな私が自由に投げた「もの」を多くの人に読んでいただけるっていうのは、堪え難い喜びを素直に感じている。

多くの方に読んでもらうのは、それはそれとして喜びと感謝の念を抱きつつ、これから自分のものづくりの精度を高めることと、私オンリーの自由なものの見方や、感受性を高め表現していきたいなと思っている。

あくまで、目的はぶらさずに、創作する楽しさを感じながら。

★感謝:100ビュー越えた記念★

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