「自分に酔え」というメッセージを見た朝
大学の新学期が一斉に開始しました。後期は火曜日の3限目が授業になったのでゆっくりnoteを書く時間も取れず途方にくれてるところです。案の定、夏の授業のない期間は仕事のペースが写真家の不規則なそれになってしまって、noteを書く時間が全然取れませんでした。改めて、人間ってのは「リズム」が大事なんだなと思ったところです。大学の授業が始まって毎日学生諸氏に向かって喋ってると、それだけでリズムが作られていくんですよね。ありがたいものです。
それはまあそれ。そう、秋学期開始で授業が始まると、毎朝電車に乗って僕も通勤電車に揺られる一人になるんですが、そういうとき本を読むか、忘れたときは中吊り広告を見ます。そんな広告の一つが今日目に入りました。そこにはこんなメッセージが(少し名詞は変えてます)
"今年の冬は「土鍋で玄米を炊く私」に美味しく酔う"
虚を突かれました。そしてその後思ったのが、「こりゃしんどい世界だなあ」と思ったんですね。だってこの広告で「美味しく酔いしれる」対象として選ばれているのは、「土鍋で炊いた玄米」ではなく、「土鍋で玄米を炊く私」なんです。それはいわば、社会からの暗黙のメッセージとなって我々に響くのですから。「自分に酔え」と。土鍋で玄米を炊いて食べるような、言ってしまえば「当たり前の日常」でさえ、それを意識的に演じて自分に酔わねばならぬとしたら、それは大変な労力のはずです。でもそれを日常化せよと広告は言う。
このようなあふれかえる「自分を愛せ」という社会からのメッセージを、これまでもところどころで見かけてきました。自分再発見のプロセスとも言えますし、社会が許容する「個人」の価値の再創造とも言えます。そういえば僕が就活じみたことをしていた時にもそれは姿を表しています:「ほんとうの自分探し」。あるいは大きなスポーツイベントでも:「自分たちのプレー」。
時々、地面の底から鎌首もたげてくるこの「自分を愛せ」というメッセージは一体どこから来て、何を目的としたものなのかの詳細な分析は僕にはできませんが、それが我々個人に対してどういう影響を及ぼすのかは想像できます。「自分を愛せ」「自分を気遣え」「自分に陶酔せよ」というメッセージが過剰になればなるほど、「自己愛」が加速します。
美しい自分、美しいものを食べている自分、美しい場所にいる自分。おそらくこの先に「貼える世界」や「リア充SNS投稿」が存在しているのでしょう。こうして作られる、キラキラとした世界。自分への「行き届いた配慮」を最大限に高めて「自分(とその周りの親密な距離)」に没入する世界。それとちょうど対をなすのは、まったく中間のない「荒涼とした見知らぬ他者」が蠢く世界。
以前こんな文章を書きました。
この時とは丁度逆の話になります。この文章では、今我々は「他者があふれる世界にいる」という話を書いてます。そして「自分を見つめるって改めて必要ですよね」ていうような話です。でもこの話の骨子は、実は今日の話題と共通していて、我々は「高められた自画像」と「影の中に沈めた他者」の間に本来あるはずのグラデーションを徐々に失いつつあるのではないか、ということなんです。
それは「共同体」と昔なら呼ばれたような、顔の見える相手が作り出していた空間がすごく小さくなってしまっていることを意味します。おじいちゃんやおばあちゃんたちが道端でぼんやり座って子どもたちを見ているような光景、この前久しぶりに沖縄でそういう光景を目にして懐かしい気分になりましたが、最近僕の地元のような地方都市の田舎の一角でも見なくなりました。
いわば世界は、極端な2値化に進んでいるということです。あれかこれか。あの絶対正義かこの絶対悪か。「生産力のある人々」と「生産力のない税金投入する価値のない人々」。ナルシス的に愛される偏向した自己と、燃やし尽くしても良い記号としてのみ存在している他者。世界は漂白され殺菌され、グレーゾーンがなくなる社会。それはいわば、無思考と無理解が大手を振って歩く、ある意味ではとても生きるのが楽な世界です。
でもいちいちグレーゾーンが見える人にとっては、それは生きにくい世の中だろうなと。
駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚。昔、好きなゲームに出てきたセリフです。そのゲームは戦乱を描いていました。そして二値的な善悪のどちらを選ぶか、あるいは選ばないかで物語の内容が変わる面白いシステムでした。グレーゾーンで煩悶する主人公は、今の世界では暗闇に横たわることになるのでしょうか。
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