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言葉を生きたものとして学ぶこと

小学校の国語の読みの授業で「これは何の◯◯でしょう」といった文が出てきたときに、「『~でしょう』は問いかけの文なので、尋ねるように読みましょう」などと指導が行われているのをしばしば目にする(教師用指導書でもそう書かれている)。
私はこの指導は害が大きいと考えている。

「~でしょう」があるから尋ねるように読みましょう、というのは論理が転倒している
人が発する言葉の中には、相手に何か答えてもらうことを求めるタイプのものがあり、そのマーカーとして、しばしば「~でしょう」が用いられる。だから、「~でしょう」が出てきたときには、問いかけの可能性を意識しましょう。
…というのが、より正確なところだ。
言葉は本来的にアクションなのであり、そのなかにこうした、「~でしょう」を用いた問いかけもある。

なんでこんなことにこだわるかというと、別に、言語行為論うんぬんといった理屈をこねたいからではない。これによって、言葉を、生きたものとして学べるかどうかが変わってくるからだ。

「『~でしょう』は問いかけの文なので、尋ねるように読みましょう」式のでは、子どもたちは、「~でしょう」を見つけること、そしてそれを「尋ねる」っぽく読むこと、に腐心するようになる。それで相手から反応が返ってくるかどうかを意識すらすることなく。

そうではなく、まず、「~でしょう」と尋ねることで相手から反応が返ってくる(いわゆる「答え」のこともあるし、「え、どういうこと?」という聞き返しのこともあるし、「うーん、わかんない」といった状態の表明のこともある)という、やりとりの感覚をつかむことが必要だ。その感覚をつかむことで、自然に、状況に応じた聞き方になる。

そしてそのために、実際にそうしたやりとりを豊富に経験させたい。説明文に出てくる「~でしょう」という問いかけは、筆者と見えない読者とのやりとりであるわけなので、例えば、一方の子どもたちが聞き手役になって「○○かな?」「いや、□□?」「教えてー」といった(架空の)あいづちを入れ、それに対応する形で、話し手側の子どもが本文(問いかけやらその後の答えやら)を読む、といった活動が可能だ。

こうしたやりとりの感覚というのは、多分に身体知の要素をもつ。
だから、まずは体験して、感覚を身につける。そのうえで、「『~でしょう』ってこんなふうに、何かを問い掛けたいときに出てくる言葉なんだね。『~でしょう』が出てきたら、問い掛けかも?って考えてみたらいいよ」と、語尾表現を押さえる。
この順序が不可欠である。

文末表現がどんな働きをするかといった文法知識は、言葉の実際的な使用の場を解析することで導かれたものであって、そうした実際的な使用の場のほうから始めずに文法知識から入るのでは、話が逆になっている。人間がアシモを見て歩き方を学ぶのと同じくらい転倒している(歩き方を学びたいのであれば、まずいっぱい歩けばいいのだ)。

なお、このように説明しても、「うちの子どもたちは難しいことができないので…。『~でしょう』が出たら尋ねるように読む、みたいに単純なのじゃないとダメなんです」といった返答が返ってくることがある。それはまったくの逆。言葉を生きた使用の場から切り離しているという点で、かえって不自然かつ難しいものにしている。

見えない聞き手役を登場させてやりとりするというのは、一種の演劇的手法だ。
なぜ国語の授業で演劇的手法が大事なのか
一言で言えば、「言葉を生きたものとして学ぶため」ということになるのだろうと思う。

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